深夜、自宅待機。
オンコールの日だったけど、生まれそうな人もおらず、実質日勤帯はオフとなり、昼まで寝ていた。
朝方までブログの整理してたし、お昼まで親子そろって寝ていた。
天気も良くないし、ベランダにまだ、水が溜まっている。
布団も干せないや。
何日か前に、天気が良い日が続いたときに、干しておいたホットカーペット類を布団袋になおし、ソファーの下に片付けた。
お部屋がすっきりした。
明日晴れるかな。
<今日の晩ごはん>
・肉団子のおかずスープ
(合挽きミンチ、玉ねぎ、人参、チンゲンサイ、ワカメ)
・ポテトサラダ(じゃがいも、人参、きゅうり、ハム、レタス)
・昨日の卵とじの残り
・かぶの塩もみ
先月お給料が入ってから、なんだか一気に使ってしまったので、今月は節約料理をがんばらねば。
生協も買い置きしてないから、つらいなあ。
頂いた竹の子を、ワカメと煮付けました。
明日食べよう。
味がしみてるぞ〜。
オンコールの日だったけど、生まれそうな人もおらず、実質日勤帯はオフとなり、昼まで寝ていた。
朝方までブログの整理してたし、お昼まで親子そろって寝ていた。
天気も良くないし、ベランダにまだ、水が溜まっている。
布団も干せないや。
何日か前に、天気が良い日が続いたときに、干しておいたホットカーペット類を布団袋になおし、ソファーの下に片付けた。
お部屋がすっきりした。
明日晴れるかな。
<今日の晩ごはん>
・肉団子のおかずスープ
(合挽きミンチ、玉ねぎ、人参、チンゲンサイ、ワカメ)
・ポテトサラダ(じゃがいも、人参、きゅうり、ハム、レタス)
・昨日の卵とじの残り
・かぶの塩もみ
先月お給料が入ってから、なんだか一気に使ってしまったので、今月は節約料理をがんばらねば。
生協も買い置きしてないから、つらいなあ。
頂いた竹の子を、ワカメと煮付けました。
明日食べよう。
味がしみてるぞ〜。
妊娠すると、子宮も大きくなるし、胎盤も生成されるし、なにより子宮で赤ちゃんを育てなければならないので、その赤ちゃんに栄養分を運ぶため、体の血液量が増えます。
大体1リットルは増えるでしょうか。
特に胎盤が出来る16週以降(いわゆる5ヶ月)は、急激に妊婦さんの血液量が増えます。
しかし、急に血液量は増えるのに対し、その「中身」である血球成分、特に赤血球の生成が追いつかなくなり、その赤血球にくっついて酸素を運ぶヘモグロビン(血色素)の量も少なくなるのです。
中身がないのに、血液量が増えれば、血液の濃度は必然的に薄くなってしまいますね。
コレが貧血、妊婦さんの鉄欠乏性貧血の原因です。
妊娠すると、生理的に貧血が起こるのですが、ある程度では様子を見ることもあるのですが、貧血が進めば、その治療をしなければなりません。
貧血をそのままにしておくと、妊娠中のだるさやめまいなど体の不調以外に、お産のときに大変な状況になってしまうことがあるのです。
出血が多くなってしまうのです。
なんたって、血液はたくさんあっても薄いのですから、血を固める成分も少なくなるので、中々出血が止まらなくなってしまうのです。
それは避けたいことですよね。
ですから、妊娠中は、非妊時の1.5倍の鉄分が必要ですので、鉄分をたくさん含んだ食品を、積極的とりましょう。
そして前回の「貧血」で書いたように、バランスよく食べ、鉄分の吸収もよくしましょう。
貧血が進んでる妊婦さんに対しては、病院であれば主治医から「鉄剤」を処方されます。
飲み方は、鉄分の吸収を阻害する、タンニンを含んだ緑茶やコーヒーと一緒には絶対に飲んではいけません。
だいたい食間(食事と食事の間)に飲むようになっています。
鉄剤は副作用に、便が黒くなり、まったりと粘っこくなり、便秘を引き起こすということがあります。
妊娠中はそれでなくても便秘になりやすいのに、大変ですよね。
それに、胸焼けを起こす妊婦さんもおられます。
助産院では、そういった鉄剤を処方することは医療行為なので出来ませんので、しっかりと食事療法をし、栄養補助食品の助けを借りたりしますが、それでも貧血が治まらないようならば、嘱託医から鉄剤を処方してもらいます。
さきほど、貧血は「生理的」と書きましたが、コレは私の考えなので(もしかしたら、何かの文献に書いているのかもしれませんが)、妊娠すると貧血になるには、私はそれなりの理由があると思うのです。
血液の濃度が薄い、と言うことは、血液が粘っこくなく、さらさらの状態で、血管の中をスムーズに流れてくれます。
胎盤の血管にも、臍帯にも。
血液の濃度が濃いままだと、逆に細いこれらの血管に、血液はスムーズに流れてくれないと思うのです。
ある程度の貧血(治療の必要の無い)の妊婦さんには、赤ちゃんの体重もしっかりある方が多いように思います。
だって、血液がさらさらだから、赤ちゃんまで行き届きやすいと考えられるからです。
でも、貧血を推奨してるのではありませんので、誤解はしないでね。
あくまでも、ある程度、プラスマイナス程度の、治療の必要のない、生理的な自然な貧血の状態です。
その逆のパターンが、私でした。
非妊時にも貧血がなく、妊娠してからも貧血が全く無かった私は、カンチの体重は2880g、私の身長163センチに対して、少し小さめの赤ちゃんだったからです。
ヘモグロビンはおろか、ヘマトクリットという、血液中の血球成分の占める割合も、高かった(もともと非妊時から正常範囲の高めの数値でした。それは今でもそうです。そして、コレステロール値も、少し高いの。くすん。決して肥満では無いのよ。最近ちょっとづつ太ってはいるけど・・・。)のです。
まさに、「血が濃い」状態でした。
そして何より、お産の後自分の胎盤を診察したのですが、梗塞・石灰化と、まさに、血流がよくなかった証拠です。
脳梗塞、と言う疾患をお聞きになった方もおられると思いますが、まさにその状況が私の胎盤の中で起こっていたのだと考えられます。
そういえば、妊娠中期以降、当時働いていた病院で仲の良い医師に、超音波検査でお腹の中のカンチの血流の状態を調べてくださったところ、カンチの脳の血流が少しよくないと言われました。
(このときはとても不安でした・・・)
でも、これも、自然に経過を見れる範囲だったので、事なきを得、今のカンチがいるわけですが。
(話は変わりますが、いまだに血液が濃い私は、将来、血管が詰まりやすい病気に注意しなくてはいけないのです。血圧も低いしね。野菜やDHAを含む食品をたっぷりとって、予防しなければ・・・)
貧血になったら、鉄剤をもらえばいいやとは思わずに、妊娠は病気ではないので、しっかり自己管理して行ってくださいね。
妊娠やお産に関する異常は、そのほとんどが予防できるものです。
そしてその予防は、医療の介入なく出来るものなのです。
大体1リットルは増えるでしょうか。
特に胎盤が出来る16週以降(いわゆる5ヶ月)は、急激に妊婦さんの血液量が増えます。
しかし、急に血液量は増えるのに対し、その「中身」である血球成分、特に赤血球の生成が追いつかなくなり、その赤血球にくっついて酸素を運ぶヘモグロビン(血色素)の量も少なくなるのです。
中身がないのに、血液量が増えれば、血液の濃度は必然的に薄くなってしまいますね。
コレが貧血、妊婦さんの鉄欠乏性貧血の原因です。
妊娠すると、生理的に貧血が起こるのですが、ある程度では様子を見ることもあるのですが、貧血が進めば、その治療をしなければなりません。
貧血をそのままにしておくと、妊娠中のだるさやめまいなど体の不調以外に、お産のときに大変な状況になってしまうことがあるのです。
出血が多くなってしまうのです。
なんたって、血液はたくさんあっても薄いのですから、血を固める成分も少なくなるので、中々出血が止まらなくなってしまうのです。
それは避けたいことですよね。
ですから、妊娠中は、非妊時の1.5倍の鉄分が必要ですので、鉄分をたくさん含んだ食品を、積極的とりましょう。
そして前回の「貧血」で書いたように、バランスよく食べ、鉄分の吸収もよくしましょう。
貧血が進んでる妊婦さんに対しては、病院であれば主治医から「鉄剤」を処方されます。
飲み方は、鉄分の吸収を阻害する、タンニンを含んだ緑茶やコーヒーと一緒には絶対に飲んではいけません。
だいたい食間(食事と食事の間)に飲むようになっています。
鉄剤は副作用に、便が黒くなり、まったりと粘っこくなり、便秘を引き起こすということがあります。
妊娠中はそれでなくても便秘になりやすいのに、大変ですよね。
それに、胸焼けを起こす妊婦さんもおられます。
助産院では、そういった鉄剤を処方することは医療行為なので出来ませんので、しっかりと食事療法をし、栄養補助食品の助けを借りたりしますが、それでも貧血が治まらないようならば、嘱託医から鉄剤を処方してもらいます。
さきほど、貧血は「生理的」と書きましたが、コレは私の考えなので(もしかしたら、何かの文献に書いているのかもしれませんが)、妊娠すると貧血になるには、私はそれなりの理由があると思うのです。
血液の濃度が薄い、と言うことは、血液が粘っこくなく、さらさらの状態で、血管の中をスムーズに流れてくれます。
胎盤の血管にも、臍帯にも。
血液の濃度が濃いままだと、逆に細いこれらの血管に、血液はスムーズに流れてくれないと思うのです。
ある程度の貧血(治療の必要の無い)の妊婦さんには、赤ちゃんの体重もしっかりある方が多いように思います。
だって、血液がさらさらだから、赤ちゃんまで行き届きやすいと考えられるからです。
でも、貧血を推奨してるのではありませんので、誤解はしないでね。
あくまでも、ある程度、プラスマイナス程度の、治療の必要のない、生理的な自然な貧血の状態です。
その逆のパターンが、私でした。
非妊時にも貧血がなく、妊娠してからも貧血が全く無かった私は、カンチの体重は2880g、私の身長163センチに対して、少し小さめの赤ちゃんだったからです。
ヘモグロビンはおろか、ヘマトクリットという、血液中の血球成分の占める割合も、高かった(もともと非妊時から正常範囲の高めの数値でした。それは今でもそうです。そして、コレステロール値も、少し高いの。くすん。決して肥満では無いのよ。最近ちょっとづつ太ってはいるけど・・・。)のです。
まさに、「血が濃い」状態でした。
そして何より、お産の後自分の胎盤を診察したのですが、梗塞・石灰化と、まさに、血流がよくなかった証拠です。
脳梗塞、と言う疾患をお聞きになった方もおられると思いますが、まさにその状況が私の胎盤の中で起こっていたのだと考えられます。
そういえば、妊娠中期以降、当時働いていた病院で仲の良い医師に、超音波検査でお腹の中のカンチの血流の状態を調べてくださったところ、カンチの脳の血流が少しよくないと言われました。
(このときはとても不安でした・・・)
でも、これも、自然に経過を見れる範囲だったので、事なきを得、今のカンチがいるわけですが。
(話は変わりますが、いまだに血液が濃い私は、将来、血管が詰まりやすい病気に注意しなくてはいけないのです。血圧も低いしね。野菜やDHAを含む食品をたっぷりとって、予防しなければ・・・)
貧血になったら、鉄剤をもらえばいいやとは思わずに、妊娠は病気ではないので、しっかり自己管理して行ってくださいね。
妊娠やお産に関する異常は、そのほとんどが予防できるものです。
そしてその予防は、医療の介入なく出来るものなのです。
貧血は、女性には多い病気です。
鉄分をたくさん含んだ食品を食べて、貧血を予防しましょう。
もちろん妊婦さんもね。
鉄分を多く含む食品
レバー(中でも鳥レバー)、ほうれん草、小松菜(カルシウムも豊富)、牡蠣、アサリ、生節、ひじき、あらめ、わかめ、豆腐や納豆など豆製品、牛肉、まぐろ、魚の血合い、プルーン(便秘にも良い)・・・くらいかな?
「おいしいごはんレシピ」に、ひじきとほうれん草のサラダを紹介しています。メニューの参考にどうぞ。
ただ、レバーの食べすぎは注意してください。
レバー=肝臓の、動物の体内における働きの一つに「解毒作用」と言う働きがあります。
体に悪い(悪影響、健康を害する)と思われる有害成分を、害の無い無害成分に変換する働きがあるため、肝臓自体に有害成分が蓄積されているからです。
鉄分の多い食品だけを食べていても、いけません。
鉄分の吸収を良くする食品も同時摂取しなければ、鉄分の吸収は促されません。
それは、たんぱく質とビタミン(特にビタミンC)です。
たんぱく質は、肉、魚、卵、豆、乳製品に豊富ですよね。
食卓ではメインになるおかずです。
ビタミン類は、野菜(緑黄色・淡色)、果物に多いのはご存知かと思います。
特にビタミンCは、淡色野菜や果物に多いですよね。
鉄分には、人間の体に吸収されやすい鉄と、吸収されにくい鉄があります。
動物性食品に含まれる鉄分は、吸収が良い(ヘム鉄)のですが、野菜類に含まれる鉄分は(非ヘム鉄)は吸収されにくいのです。
しかし、上記のように、たんぱく質や、また野菜類にはビタミンも多いので、同時に摂取することで、吸収もよくなります。
なんにせよ、食品はそればかりを食べても効果は期待できません(逆に偏りが生じます)
バランスよく食べてこそ、その食品の持つ栄養素がより吸収され、効果が発揮されるのです。
また、せっかくたっぷり鉄分を摂り、また鉄分の吸収を促す食品も摂ったのに、その鉄分の吸収が逆に阻害されたら、とてももったいないことです。
鉄分の吸収を阻害するものは、緑茶・コーヒー・紅茶に含まれるタンニンという、渋みの成分です。
ですから、食事中や食事の後すぐにこういったものを飲むことは避けましょう。
ただし、タンニンの少ないウーロン茶や番茶などは飲んでも構いません。
また男性・女性を問わず、貧血が激しい人は、隠れた疾患がある場合もあります。
どこからか出血してるとか、女性は生理時だけでなく、婦人科疾患を持っている場合も有りますので、単に「貧血」と考えないほうがいいかもしれません。
貧血の症状は決まって出るものではなく、体がだるいとか何だかしんどいとか、息切れ・めまいなど(立ちくらみと貧血は違います)現れだしたら、かなりの貧血が進んでいると考えてください。
また貧血検査は、年1回の職場や住民健診などを利用し、定期的に自己管理もしておきましょう。
(これらの健診は、何も貧血検査だけではないので、年1回は健診されることをおすすめします)
私は栄養士ではないため、専門的なことは詳しくありませんが、助産婦として持っている知識を書かせていただきました。
次回は妊婦さんの貧血について書きます。
鉄分をたくさん含んだ食品を食べて、貧血を予防しましょう。
もちろん妊婦さんもね。
鉄分を多く含む食品
レバー(中でも鳥レバー)、ほうれん草、小松菜(カルシウムも豊富)、牡蠣、アサリ、生節、ひじき、あらめ、わかめ、豆腐や納豆など豆製品、牛肉、まぐろ、魚の血合い、プルーン(便秘にも良い)・・・くらいかな?
「おいしいごはんレシピ」に、ひじきとほうれん草のサラダを紹介しています。メニューの参考にどうぞ。
ただ、レバーの食べすぎは注意してください。
レバー=肝臓の、動物の体内における働きの一つに「解毒作用」と言う働きがあります。
体に悪い(悪影響、健康を害する)と思われる有害成分を、害の無い無害成分に変換する働きがあるため、肝臓自体に有害成分が蓄積されているからです。
鉄分の多い食品だけを食べていても、いけません。
鉄分の吸収を良くする食品も同時摂取しなければ、鉄分の吸収は促されません。
それは、たんぱく質とビタミン(特にビタミンC)です。
たんぱく質は、肉、魚、卵、豆、乳製品に豊富ですよね。
食卓ではメインになるおかずです。
ビタミン類は、野菜(緑黄色・淡色)、果物に多いのはご存知かと思います。
特にビタミンCは、淡色野菜や果物に多いですよね。
鉄分には、人間の体に吸収されやすい鉄と、吸収されにくい鉄があります。
動物性食品に含まれる鉄分は、吸収が良い(ヘム鉄)のですが、野菜類に含まれる鉄分は(非ヘム鉄)は吸収されにくいのです。
しかし、上記のように、たんぱく質や、また野菜類にはビタミンも多いので、同時に摂取することで、吸収もよくなります。
なんにせよ、食品はそればかりを食べても効果は期待できません(逆に偏りが生じます)
バランスよく食べてこそ、その食品の持つ栄養素がより吸収され、効果が発揮されるのです。
また、せっかくたっぷり鉄分を摂り、また鉄分の吸収を促す食品も摂ったのに、その鉄分の吸収が逆に阻害されたら、とてももったいないことです。
鉄分の吸収を阻害するものは、緑茶・コーヒー・紅茶に含まれるタンニンという、渋みの成分です。
ですから、食事中や食事の後すぐにこういったものを飲むことは避けましょう。
ただし、タンニンの少ないウーロン茶や番茶などは飲んでも構いません。
また男性・女性を問わず、貧血が激しい人は、隠れた疾患がある場合もあります。
どこからか出血してるとか、女性は生理時だけでなく、婦人科疾患を持っている場合も有りますので、単に「貧血」と考えないほうがいいかもしれません。
貧血の症状は決まって出るものではなく、体がだるいとか何だかしんどいとか、息切れ・めまいなど(立ちくらみと貧血は違います)現れだしたら、かなりの貧血が進んでいると考えてください。
また貧血検査は、年1回の職場や住民健診などを利用し、定期的に自己管理もしておきましょう。
(これらの健診は、何も貧血検査だけではないので、年1回は健診されることをおすすめします)
私は栄養士ではないため、専門的なことは詳しくありませんが、助産婦として持っている知識を書かせていただきました。
次回は妊婦さんの貧血について書きます。
メイシーさんから、お産のお話が届きました。
10人の妊産婦さんがいたら、10通りのお産があるほど、お産は全て違います。
一人一人のお産を、助産婦としても、また同じ母親としても、大切にしていきたいですね。
お話は3部構成になっています。
1)つわりのお話
お産と言えば思い出すのはまずつわりのこと。私はすごーくひどい吐きづわりだったの
で、毎日ホントに起きればトイレ直行!って感じで、辛かったです。妊娠一ヶ月ちょっと
ではじまって、三ヶ月ぐらい続いたかな。何を食べても何を飲んでも吐く、って感じで3
キロぐらい痩せました。赤ちゃんに栄養が行かないのでは…と心配しましたが、今はまだ
小さいから二倍食べるとかそんな必要はないですから、脱水にだけ気をつけて下さい、と
言われて時々点滴してもらって乗り切りました。
辛くて辛くて経産婦の友達などに相談するんですけど、「私はカレーがすごく食べたく
なって、毎日カレーばっかり食べてた」「ある日突然なくなるよ」「私は臨月までずっと
つわりだった」等々、みんな言うことが違うのであんまり参考にならない…(^ ^;)。でも、とにかく皆さん、「いつかは終わると信じて待て」とおっしゃるのです。
つわりの終わる一週間前ぐらいが一番ひどかったです。水を飲んでも吐いてしまうので
フラフラになり、先生も「あと一週間続いたらちょっと入院しましょうか?」とおっしゃっていたんですが、そのタイムリミットがくる直前の朝、目が覚めたら「あれ?今日は気持ち悪くない」という感じで、本当に魔法のように吐き気がおさまり、つわり卒業していました。徐々に良くなるんじゃないんですね。その前日まで二日酔いか食中毒みたいに苦しかったのに、夢のように吐き気が消えていました。
辛かったけど、痩せたお陰でその後体重コントロールに悩むことは全くなくて、もしか
してそのためのつわりなのかしら?なんて思ったりした次第です。
2)せっかちな赤ちゃん
よく「初産は遅れ気味になる」って言いますよね。でも、私の場合、初産だったんです
が、臨月よりも前からお腹が張るようになっていました。張る、と言われても初産の方はよく感じが分からないと思いますが、お腹の皮がつっぱって、かたーくなるような感じです。痛みはそれほど強くないんですが、きゅんと収縮する感じ、とでも言えば良いのでしょうか。それにだんだん赤ちゃんも下降気味になり、早産の危険があるので安静にして下さいと言われ、その他に張り止めのお薬を処方されました。これが随分強い薬で、飲むと頭の中の血管がドクンドクンと言うような感じで、安静にしろと言われなくても寝込んでしまいそうになるぐらい。お腹が張るよりこれの方が辛かったのですが、「まだ赤ちゃんが十分大きくなっていないので、もう少しがんばってお腹の中にいてもらいましょう。今出てきたら保育器になっちゃうからね。」と先生に言われて頑張りました。せっかちな赤ちゃんだなあ…と思いながら。
こんな感じだったので、早めになるだろうなという予感があったのですが、両親も夫も「初産は遅くなる」というジンクスばかり信じていて、「何だか早くなる気がする」という私の訴えもまるで相手にしてくれず、退院後の準備も寝込んだりしているお陰で遅れ気味で、なんだか不安な臨月でした。
予定日二週間前の検診では、子宮口が一センチ開いていました。「まあ、この位大きくな
ったら、いつ生まれてきてもいいでしょう。薬もやめて、あとは赤ちゃんが生まれたいときに出てきてもらいましょう。」ということで、張り止めのお薬もストップ。「先生、お腹が張るのと、陣痛ってどう違うんですか」と聞いてみたところ、「最初はあんまり違いません。お腹が張るのが規則的になってきたら、それを陣痛と言うんですよね」と言われてますます不安になる私。どっちか分からなくて様子を見ているうちに破水しちゃったりしたらどうするんだろう…。出産の本には破水してもあわてずタクシーを呼んでどうのこうの…って書いてあるけど、そんなの嫌だなあ、コワイなあ…。「まあ、お薬やめたらいつ始まってもおかしくないですから、あれ、と思ったらいつでも電話して下さい」と先生。でも相変わらず、「まあ初産は一週間ぐらい遅れるものだってさ」と言い続ける夫は実にのんびりしたもので、「今のうちに」とか言いながら、予定日直前に出張の予定を入れてしまったりするもので、「本気で1人で病院に行くことになるかも」とドキドキする私でした。
お薬をやめて二日後の明け方四時頃、またお腹の強い張りで目がさめました。薬をやめたらあっという間にまた強い張りが始まり、前の日にもきゅーっ、きゅーっと何度もお腹が固くなっていたのですが、何だかこの日の張りは、一度でおさまらない。一度おさまった張りが、また揺り戻しのように帰ってくるんです。これが陣痛…?
でも、テレビドラマなんか見ていると、だいたい妊婦役の人って、陣痛が始まったとたんに「うっ」とかってお腹おさえて、もうすっごく痛そうな顔するじゃないですか。その場にしゃがみこんじゃったり。それですぐハアハア苦しそうにするでしょう。それほど痛くないんですよ。とにかくお薬飲んで止めていたぐらいで、張るということ自体は初めてじゃないし、今までと痛みも変わらない。だから何だかよく分からなくて。「おしるし」と言われるものもなかったし、どうにも自分では判断がつきません。
ただ、とにかく「規則的になったら陣痛の始まりです」という先生のお話があったので、ちょっと時計を持ってきて間隔を計ってみました。30分、20分、12分、18分、10分…と言う感じで、バラバラです。規則的っていうのは、10分なら10分で、10分、10分、10分…って続くことを言うことだと思っていたので、こんな不規則なのじゃ何がなんだか分からない。しかも感覚が短い時はいきなり5 分おきに来るし、来ない時にはぼーっとしてると20分以上たってしまう。一体どのタイミングで病院に電話したらいいの?と時計を眺めて悩んでました。
とにかく、こう頻繁に続くことは尋常ではないと思ったので、夫を起こして「始まったみたいな気がするんだけどよく分からない」と言うと、相変わらず「なんか前から張る張るって言ってたヤツじゃないの?まだ予定日まで二週間もあるのに」とぶつぶつ言う夫。
「今日中に出す仕事が一本あるから、終わったら病院一緒に行ってもいいけど」と、やっぱり緊迫感に欠けています。仕方ないので、時計とにらめっこして記録をつけながら、夫の食事を作り、合間に一応入院の準備をして、病院の診療時間の開始を待ちました。
でも、そうこうしている間に、張りの感覚がどんどん狭くなってきました。私が「これやっぱり陣痛じゃないかなあ、陣痛だと思うんだけどなあ」とうるさく言うので、夫もようやく「じゃあ電話してみたら?いつでもいいって言われたんだろ」と言いだし、昼頃に病院に電話を入れました。朝からこんな感じです、というのを説明すると、「かなり赤ちゃんも下がっていましたし、一応来てみて下さい。念のため先生に診ていただきましょう」ということで、午後二時ごろに入院しました。
でもヘンなもので、入院して内診とかもして、お腹に胎児監視用のモニターをつけたらとたんに、もしかしたら朝から頑張ってた赤ちゃんが昼寝しちゃったのかも知れないんですが、さっぱりお腹が張らなくなっちゃった。「やっぱり張り切りすぎじゃないの?」と言って夫は「仕事があるから」と帰っちゃうし、先生は「まあ、一応今夜は泊まってもらって様子を見てみましょうか。それで明日おうちに帰ることになるかも知れませんけど、そういう人も結構いますから」とニコニコ。勇み足か?という感じですごく恥ずかしかったんですが、とにかく朝からずっと緊張していて疲れちゃって、入院して休めるならそれはそれでいいかー、という感じで、待機室で一泊ということになりました。一度つけたモニターもはずして、夕食も食べて、何だったんだろうなー、とベッドでぼんやりしていました。
3)いよいよ出産!
ところが、食事のあとトイレに行ったあたりから、またちょっとずつお腹が張りだしました。朝早起きして疲れているのに寝付けません。また紙だしてきて、時計を見ながら間隔を記録していました。
そのうち看護婦さんが来て、「張る?」と聞くのではいというと、「一応モニターつけようか」という話になり、またベルトを巻いて待機。痛み自体はまだ我慢できないほどではなく、「まあ、早くても明日の朝とか昼でしょうね」と看護婦さんも言っていたのですが、そんな話をした直後に、ぱちん、という感じがして破水していました。「破水しました」と看護婦さんを呼び、感染防止の注射を打ってもらいます。
そこから先は、あれよあれよという感じで陣痛が進んできました。のんびりしていたのは家族だけではなく、看護婦さんも二人いる当直の看護婦さんのうち、1人がちょっとお風呂に行ってしまっていたりして、残った1人の看護婦さんは、まさに大わらわという感じでした。先生も家に戻ってしまっていたので、電話で呼び出し、夫にも(一応立ち会いの予定だったので)連絡。
出産直前の内診は結構痛いです。思い切り手を入れて赤ちゃんの頭などを確認するので、普通の内診とはゼンゼン違う感じ。私は陣痛より、内診される時の痛みの方が不快だったなあ。でも、生むまで何回かのことだわ、と思って我慢しました。とにかくどんどん赤ちゃんが降りてきている感じは、内診されなくてもわかりました。とにかくこれを終わらせたい、と思うのですが、まだいきんじゃダメとと言われるんですよね。もうラマーズ法なんかぶっとんだ状態で、右を向いたり左を向いたりしながらひたすら我慢です。
夫が着く頃にはもう、赤ちゃんの頭が出かかっているような状態で、でもまだ先生が着かない。看護婦さんが「ご主人、点滴持って!」と点滴袋を夫に持たせ、「もういきみたい、我慢できない」と半べそをかく私を「こんなとこで(待機室)生みたくないでしょう!先生来るまで頑張って!」と叱咤しながら、分娩室へ移動しました。これ、多分立ち会い予定じゃなかったとしても、夫は分娩室に入るしかなかったでしょうね(苦笑)。人手が足りないんだもん。
30分後に先生ともう1人の看護婦さんも到着。とにかくもう、赤ちゃん出かかってるん
ですから、大急ぎもです。私が出産前一番コワイと思っていたのは実は陣痛より会陰切開だったんですが、それも麻酔が効くまで待ってられない、という感じで、麻酔の注射を打った直後にはもう先生がメスを入れていました。でも、ほとんど痛みは感じませんでした。陣痛と、何でもいいから早く生んでしまいたい!というのに気をとられているので、それどころではなかったんですね。(後から縫合する時の方がチクチクして痛かったです。)
「はい、いきんで」と言われた時には心底ほっとしました。もう我慢しなくていいんですから、あとは生まれるまで頑張るだけ。一度いきんだら、どっと痛みが増しました。うわあ、これをずっとじゃ我慢出来ない!という感じ。とにかく早く解放されたい。「はい、もう一度」…この回は、思わず口から声が漏れてしまい失敗。「ダメ、声出さないで、おへそみて。はい、いきんで!」言われた通りにちゃんと口を閉じて、ウン、といきんだら、あ、という感じで下半身に留まっていた痛みが消えて、赤ちゃんの泣き声が…。日付の変わる少し前でした。「はい、男のお子さんですよ。抱っこしてあげてね」…ほい、とお腹のあたりに置かれた赤ちゃんは、何だかなま暖かくてしっとりした感じで、よく「お猿さんみたい」とか言いますが、私の感想は「赤ちゃんってホントに赤いんだあ」でした。力んで泣くので顔が真っ赤。気がつくと「ありがとうねー、よく来たねー」と呼びかけていました。何かと言うと「女はダメ」とか「男の苦労はどうのこうの」とか言ってばかりの夫も、この時ばかりは感動した様子で「女はスゴイなあ!スゴイよ!」と興奮していましたよ。
早く生まれたのに髪の毛ふさふさ、2618グラムと小さいけど泣き声は大きな元気な赤ちゃんでした。同じ時病院に入院していて、逆に二週間おくれで陣痛促進剤を使って、まる二日もかけて産んだ方がいらしたのですが、その赤ちゃんとは1000グラム以上違ったので、新生児室で見比べると本当に別の生き物みたいでした。実は出産前に男の子だったらこの名前、って決めていた名前があったのですが、生まれた顔を見たら、なんかイメージ違うなーという話になり(ちょっと賢そうな感じの名前を考えてあったのですが、生まれてきた赤ちゃんは賢そうというよりやんちゃな感じの顔でした)、あわてて二週間で決め直したんです。今三歳ですが、すっかりその名前に馴染んだ元気な男の子に成長しています。
おしまい。
〜メイシーさん、どうもありがとう!〜
10人の妊産婦さんがいたら、10通りのお産があるほど、お産は全て違います。
一人一人のお産を、助産婦としても、また同じ母親としても、大切にしていきたいですね。
お話は3部構成になっています。
1)つわりのお話
お産と言えば思い出すのはまずつわりのこと。私はすごーくひどい吐きづわりだったの
で、毎日ホントに起きればトイレ直行!って感じで、辛かったです。妊娠一ヶ月ちょっと
ではじまって、三ヶ月ぐらい続いたかな。何を食べても何を飲んでも吐く、って感じで3
キロぐらい痩せました。赤ちゃんに栄養が行かないのでは…と心配しましたが、今はまだ
小さいから二倍食べるとかそんな必要はないですから、脱水にだけ気をつけて下さい、と
言われて時々点滴してもらって乗り切りました。
辛くて辛くて経産婦の友達などに相談するんですけど、「私はカレーがすごく食べたく
なって、毎日カレーばっかり食べてた」「ある日突然なくなるよ」「私は臨月までずっと
つわりだった」等々、みんな言うことが違うのであんまり参考にならない…(^ ^;)。でも、とにかく皆さん、「いつかは終わると信じて待て」とおっしゃるのです。
つわりの終わる一週間前ぐらいが一番ひどかったです。水を飲んでも吐いてしまうので
フラフラになり、先生も「あと一週間続いたらちょっと入院しましょうか?」とおっしゃっていたんですが、そのタイムリミットがくる直前の朝、目が覚めたら「あれ?今日は気持ち悪くない」という感じで、本当に魔法のように吐き気がおさまり、つわり卒業していました。徐々に良くなるんじゃないんですね。その前日まで二日酔いか食中毒みたいに苦しかったのに、夢のように吐き気が消えていました。
辛かったけど、痩せたお陰でその後体重コントロールに悩むことは全くなくて、もしか
してそのためのつわりなのかしら?なんて思ったりした次第です。
2)せっかちな赤ちゃん
よく「初産は遅れ気味になる」って言いますよね。でも、私の場合、初産だったんです
が、臨月よりも前からお腹が張るようになっていました。張る、と言われても初産の方はよく感じが分からないと思いますが、お腹の皮がつっぱって、かたーくなるような感じです。痛みはそれほど強くないんですが、きゅんと収縮する感じ、とでも言えば良いのでしょうか。それにだんだん赤ちゃんも下降気味になり、早産の危険があるので安静にして下さいと言われ、その他に張り止めのお薬を処方されました。これが随分強い薬で、飲むと頭の中の血管がドクンドクンと言うような感じで、安静にしろと言われなくても寝込んでしまいそうになるぐらい。お腹が張るよりこれの方が辛かったのですが、「まだ赤ちゃんが十分大きくなっていないので、もう少しがんばってお腹の中にいてもらいましょう。今出てきたら保育器になっちゃうからね。」と先生に言われて頑張りました。せっかちな赤ちゃんだなあ…と思いながら。
こんな感じだったので、早めになるだろうなという予感があったのですが、両親も夫も「初産は遅くなる」というジンクスばかり信じていて、「何だか早くなる気がする」という私の訴えもまるで相手にしてくれず、退院後の準備も寝込んだりしているお陰で遅れ気味で、なんだか不安な臨月でした。
予定日二週間前の検診では、子宮口が一センチ開いていました。「まあ、この位大きくな
ったら、いつ生まれてきてもいいでしょう。薬もやめて、あとは赤ちゃんが生まれたいときに出てきてもらいましょう。」ということで、張り止めのお薬もストップ。「先生、お腹が張るのと、陣痛ってどう違うんですか」と聞いてみたところ、「最初はあんまり違いません。お腹が張るのが規則的になってきたら、それを陣痛と言うんですよね」と言われてますます不安になる私。どっちか分からなくて様子を見ているうちに破水しちゃったりしたらどうするんだろう…。出産の本には破水してもあわてずタクシーを呼んでどうのこうの…って書いてあるけど、そんなの嫌だなあ、コワイなあ…。「まあ、お薬やめたらいつ始まってもおかしくないですから、あれ、と思ったらいつでも電話して下さい」と先生。でも相変わらず、「まあ初産は一週間ぐらい遅れるものだってさ」と言い続ける夫は実にのんびりしたもので、「今のうちに」とか言いながら、予定日直前に出張の予定を入れてしまったりするもので、「本気で1人で病院に行くことになるかも」とドキドキする私でした。
お薬をやめて二日後の明け方四時頃、またお腹の強い張りで目がさめました。薬をやめたらあっという間にまた強い張りが始まり、前の日にもきゅーっ、きゅーっと何度もお腹が固くなっていたのですが、何だかこの日の張りは、一度でおさまらない。一度おさまった張りが、また揺り戻しのように帰ってくるんです。これが陣痛…?
でも、テレビドラマなんか見ていると、だいたい妊婦役の人って、陣痛が始まったとたんに「うっ」とかってお腹おさえて、もうすっごく痛そうな顔するじゃないですか。その場にしゃがみこんじゃったり。それですぐハアハア苦しそうにするでしょう。それほど痛くないんですよ。とにかくお薬飲んで止めていたぐらいで、張るということ自体は初めてじゃないし、今までと痛みも変わらない。だから何だかよく分からなくて。「おしるし」と言われるものもなかったし、どうにも自分では判断がつきません。
ただ、とにかく「規則的になったら陣痛の始まりです」という先生のお話があったので、ちょっと時計を持ってきて間隔を計ってみました。30分、20分、12分、18分、10分…と言う感じで、バラバラです。規則的っていうのは、10分なら10分で、10分、10分、10分…って続くことを言うことだと思っていたので、こんな不規則なのじゃ何がなんだか分からない。しかも感覚が短い時はいきなり5 分おきに来るし、来ない時にはぼーっとしてると20分以上たってしまう。一体どのタイミングで病院に電話したらいいの?と時計を眺めて悩んでました。
とにかく、こう頻繁に続くことは尋常ではないと思ったので、夫を起こして「始まったみたいな気がするんだけどよく分からない」と言うと、相変わらず「なんか前から張る張るって言ってたヤツじゃないの?まだ予定日まで二週間もあるのに」とぶつぶつ言う夫。
「今日中に出す仕事が一本あるから、終わったら病院一緒に行ってもいいけど」と、やっぱり緊迫感に欠けています。仕方ないので、時計とにらめっこして記録をつけながら、夫の食事を作り、合間に一応入院の準備をして、病院の診療時間の開始を待ちました。
でも、そうこうしている間に、張りの感覚がどんどん狭くなってきました。私が「これやっぱり陣痛じゃないかなあ、陣痛だと思うんだけどなあ」とうるさく言うので、夫もようやく「じゃあ電話してみたら?いつでもいいって言われたんだろ」と言いだし、昼頃に病院に電話を入れました。朝からこんな感じです、というのを説明すると、「かなり赤ちゃんも下がっていましたし、一応来てみて下さい。念のため先生に診ていただきましょう」ということで、午後二時ごろに入院しました。
でもヘンなもので、入院して内診とかもして、お腹に胎児監視用のモニターをつけたらとたんに、もしかしたら朝から頑張ってた赤ちゃんが昼寝しちゃったのかも知れないんですが、さっぱりお腹が張らなくなっちゃった。「やっぱり張り切りすぎじゃないの?」と言って夫は「仕事があるから」と帰っちゃうし、先生は「まあ、一応今夜は泊まってもらって様子を見てみましょうか。それで明日おうちに帰ることになるかも知れませんけど、そういう人も結構いますから」とニコニコ。勇み足か?という感じですごく恥ずかしかったんですが、とにかく朝からずっと緊張していて疲れちゃって、入院して休めるならそれはそれでいいかー、という感じで、待機室で一泊ということになりました。一度つけたモニターもはずして、夕食も食べて、何だったんだろうなー、とベッドでぼんやりしていました。
3)いよいよ出産!
ところが、食事のあとトイレに行ったあたりから、またちょっとずつお腹が張りだしました。朝早起きして疲れているのに寝付けません。また紙だしてきて、時計を見ながら間隔を記録していました。
そのうち看護婦さんが来て、「張る?」と聞くのではいというと、「一応モニターつけようか」という話になり、またベルトを巻いて待機。痛み自体はまだ我慢できないほどではなく、「まあ、早くても明日の朝とか昼でしょうね」と看護婦さんも言っていたのですが、そんな話をした直後に、ぱちん、という感じがして破水していました。「破水しました」と看護婦さんを呼び、感染防止の注射を打ってもらいます。
そこから先は、あれよあれよという感じで陣痛が進んできました。のんびりしていたのは家族だけではなく、看護婦さんも二人いる当直の看護婦さんのうち、1人がちょっとお風呂に行ってしまっていたりして、残った1人の看護婦さんは、まさに大わらわという感じでした。先生も家に戻ってしまっていたので、電話で呼び出し、夫にも(一応立ち会いの予定だったので)連絡。
出産直前の内診は結構痛いです。思い切り手を入れて赤ちゃんの頭などを確認するので、普通の内診とはゼンゼン違う感じ。私は陣痛より、内診される時の痛みの方が不快だったなあ。でも、生むまで何回かのことだわ、と思って我慢しました。とにかくどんどん赤ちゃんが降りてきている感じは、内診されなくてもわかりました。とにかくこれを終わらせたい、と思うのですが、まだいきんじゃダメとと言われるんですよね。もうラマーズ法なんかぶっとんだ状態で、右を向いたり左を向いたりしながらひたすら我慢です。
夫が着く頃にはもう、赤ちゃんの頭が出かかっているような状態で、でもまだ先生が着かない。看護婦さんが「ご主人、点滴持って!」と点滴袋を夫に持たせ、「もういきみたい、我慢できない」と半べそをかく私を「こんなとこで(待機室)生みたくないでしょう!先生来るまで頑張って!」と叱咤しながら、分娩室へ移動しました。これ、多分立ち会い予定じゃなかったとしても、夫は分娩室に入るしかなかったでしょうね(苦笑)。人手が足りないんだもん。
30分後に先生ともう1人の看護婦さんも到着。とにかくもう、赤ちゃん出かかってるん
ですから、大急ぎもです。私が出産前一番コワイと思っていたのは実は陣痛より会陰切開だったんですが、それも麻酔が効くまで待ってられない、という感じで、麻酔の注射を打った直後にはもう先生がメスを入れていました。でも、ほとんど痛みは感じませんでした。陣痛と、何でもいいから早く生んでしまいたい!というのに気をとられているので、それどころではなかったんですね。(後から縫合する時の方がチクチクして痛かったです。)
「はい、いきんで」と言われた時には心底ほっとしました。もう我慢しなくていいんですから、あとは生まれるまで頑張るだけ。一度いきんだら、どっと痛みが増しました。うわあ、これをずっとじゃ我慢出来ない!という感じ。とにかく早く解放されたい。「はい、もう一度」…この回は、思わず口から声が漏れてしまい失敗。「ダメ、声出さないで、おへそみて。はい、いきんで!」言われた通りにちゃんと口を閉じて、ウン、といきんだら、あ、という感じで下半身に留まっていた痛みが消えて、赤ちゃんの泣き声が…。日付の変わる少し前でした。「はい、男のお子さんですよ。抱っこしてあげてね」…ほい、とお腹のあたりに置かれた赤ちゃんは、何だかなま暖かくてしっとりした感じで、よく「お猿さんみたい」とか言いますが、私の感想は「赤ちゃんってホントに赤いんだあ」でした。力んで泣くので顔が真っ赤。気がつくと「ありがとうねー、よく来たねー」と呼びかけていました。何かと言うと「女はダメ」とか「男の苦労はどうのこうの」とか言ってばかりの夫も、この時ばかりは感動した様子で「女はスゴイなあ!スゴイよ!」と興奮していましたよ。
早く生まれたのに髪の毛ふさふさ、2618グラムと小さいけど泣き声は大きな元気な赤ちゃんでした。同じ時病院に入院していて、逆に二週間おくれで陣痛促進剤を使って、まる二日もかけて産んだ方がいらしたのですが、その赤ちゃんとは1000グラム以上違ったので、新生児室で見比べると本当に別の生き物みたいでした。実は出産前に男の子だったらこの名前、って決めていた名前があったのですが、生まれた顔を見たら、なんかイメージ違うなーという話になり(ちょっと賢そうな感じの名前を考えてあったのですが、生まれてきた赤ちゃんは賢そうというよりやんちゃな感じの顔でした)、あわてて二週間で決め直したんです。今三歳ですが、すっかりその名前に馴染んだ元気な男の子に成長しています。
おしまい。
〜メイシーさん、どうもありがとう!〜
「ぼく・わたしがうまれたとき」で、妊娠中や出産のことを書いたが、それより詳しく、私のお産を振り返ってみようかと思った。
私は予定日の次の日、40週1日でカンチを生んだ。
ちょうどその前日の予定日に、妊婦健診に当たっていたが、内診ではお産になる日はまだ先になるかと言う診断であった。
M先生(私は助産院に掛かっていたので、このM先生と言うのは医師ではなく助産婦)は、「お産が少しでも早く迎えられるように、おまじないをしておこう。」とおっしゃり、卵膜剥離を施してくださった。
卵膜剥離とは、子宮内膜と赤ちゃんを包んでいる卵膜が密着しているので、それをそっと内診指ではがしていくことだ。
その剥離した刺激で、子宮収縮(陣痛)が起こるので、お産につながっていくのだ。
それまでは、なんとなく規則的になったり遠のいたりする「前駆陣痛」はあったのだが。
私はその健診の後、今までより少し良く張るお腹をさすりながら、帰宅した。
自宅からお産をするM助産院まで、電車を乗り継いで通っていた。
2時間近く通院時間は掛かっていたのだが、その日は途中のデパートで雑貨屋を見たり、1人でお茶を飲んだり、子供服を見たり、かなり寄り道をしてから帰宅した。
通算3〜4時間は歩いていただろうか。
そのときも、かなり下腹が張っていた。
その日の入浴は、いつもより念入りに乳頭のマッサージをし、できるだけ子宮収縮を自分で起こすようにしていた。
入浴中も、お腹はよく張り、カンチも元気に動いていた。
産休に入っていた私は、かなりの夜型人間になっていたので、その日も午前1時過ぎに布団に入り、「明日もよく歩くぞ」と、考えながら眠りに入った。
うとうと眠っていた私は、お腹の痛みで目が覚めた。
午前3時。
あれから2時間しか経ってない。
お腹の痛みは、下痢の痛みに似ていたので、私はトイレに行ったのだが、どうも下痢では無い様子。
トイレに座っていると、何だかこの痛みは規則的に来て、お腹もかなり固くなっている。
今までの前駆陣痛とは、ちょっと痛みも違う。
「ええ〜、まさか陣痛?」
だって、昨日の診察では、お産はまだ先と言われていたぞ。
布団に戻って眠ることにしたが、なんだか興奮とお腹の痛みで眠れない。
時計で時間を測ってみると、お腹の痛みは5分おきに来ている。
やっぱり陣痛だ!
でも陣痛が来だしたところなので、今すぐ生まれるわけでもなく、やっぱり朝まで様子を見ることにした。
カンチは元気に動いていた。
私は何だかわくわくしていた。
本当に楽しみだったのだ。
6時になり、陣痛感覚は縮まらず5分おきだったものの、痛みはかなり強くなっている。
朝の診察の準備もする頃だろうし、私はM助産院に電話をした。
M先生もちょっとびっくりなさり、朝の通勤ラッシュに重ならないように来院するよう、指示してくださった。
私は当時の夫の実家と、目と鼻の先にマンションを借りていたので、とりあえず仕事に行く夫の変わりに、義父母に車で連れて行ってもらうことになった。
私は助産婦なので、そんなに付き添いも要らないし、大丈夫と言ったのだが、義父母にすれば初めての内孫なので、彼らの気持を尊重することにし、一緒に行ってもらった。
M助産院に着いたのは、8時を回っていた。
M先生は、ニコニコと笑顔で私を迎えてくださった。
M助産院に着くと、まず分娩監視装置を装着し、陣痛とお腹のカンチの元気な様子を診断する。
相変わらず陣痛は5分おきだが、強くはなってきている。
そしてカンチは元気だ。
内診していただくと、子宮口は3センチ開大している。
昨日の卵膜剥離のおかげなのか、すごいすごい。
でも、お産までにはまだ時間は掛かるので、私はいったん帰宅することにした。
幸い、自宅より私の実家のほうがM助産院まで近く、車で10分の距離だ。
自宅には帰らずに、実家に帰り、しばらくゆっくり様子を見ることにした。
そのときM先生は「はい!」と言って、お産のときに使用する清潔グローブを私に手渡した。
コレは、私に自分で内診しろということだ。
「自分で内診して、いい時期にまた来なさい。」とおっしゃった。
うわさには聞いていたが、やっぱり助産婦は自分のお産のとき、自分で内診しないといけないのか・・・と、こんなときまで仕事をする自分が、何だかなーと思ってしまった。
帰宅前にトイレに行った私は、そこで初めて出血(おしるし)を見、いよいよお産になるのだなーと感じていた。
実家に帰った私は、母にお風呂を沸かしてもらい、ゆっくり入浴した。
体を温めると血行が良くなるため、子宮の周りの血液循環も良くなり、お産の進みが早いのだ。
その後、母におかゆを作ってもらった。
朝食をとってなかった私は、お腹が空いてるはずなのに、痛みで胸やけがし、少しだけしか食べられなかった。
午前中の仕事を終え、夫が実家にやってきた。
ちょうどお昼だったが、痛みは強くなってるのに、相変わらず陣痛間隔は5分おきなのだ。
私の体は、いったいどれだけお産が進んでいるのだろう。
私は意を決してトイレに入り、清潔グローブを右手にはめ、自分で診察してみた。
痛いのに、なんで私は仕事をしてるんだと思ったが、子宮口は6センチ開大してると、私は診断した。
カンチの頭も、随分下に下がってきている。
よっしゃ!と、私は、必死に呼吸法をしながら、夫の車に乗った。
車の揺れもあったのか、急に陣痛が進んで、間隔が3分おきになっていった。
その週はちょうど、私の卒業した助産婦学校の学生(つまり後輩)の、助産所見学実習の週であったので、M先生も学校に連絡をし、私が着いた頃には、10人くらいの助産婦学生がすでに到着していた。
「みなみさん、よろしくお願いします。」と、学生達は挨拶したが、コレは仕事じゃないっての。
私のお産だよ。
この挨拶は、なんか変だよ。
せめて「頑張ってください。」って普通の妊産婦さんに接するように、応援してよ(涙)
M助産院に到着してすぐM先生は診察してくださった。
子宮口は8センチ開いてる。
結構進んだもんだ。
ただ、カンチの頭の向きがまだ反対だったので、椅子にうつぶせになるようにもたれ、カンチの頭が正常な位置に回れるように、過ごした。
夫も腰をさすってくれたが、学生達も次々と腰をさすってくれたり、見守ってくれたりしたので、私は心強かった。
そして、ついにいきみたい感覚に襲われ、分娩場であるベッドへ移った。
(助産院では、陣痛も好きな格好で過ごせるし、自由なのです。畳の部屋で生むことも出来るのよ。)
そして、お産の準備が出来ると、M先生は人工破膜(自然に破水しない場合、お産の介助者が人工的に破水させること。卵膜をコッヘルという器械で、引っ掛けて破き、破水させるのです。)を施し、数回いきみをかけていった。
途中、カンチの頭にも触らせてもらい、M先生は「自分でお産とりあげれるなー」と、冗談をおっしゃった。
その後も数回いきんだだけで、カンチはとても元気に生まれてきてくれた。
体重2880グラム、アプガールスコアも1分後は9点!!
すごくうれしくて、早く顔を見たかった。
ああ、こんな顔だったのか、あなたは。
生まれてきてくれてありがとう。
お母さんを安産にしてくれて、ありがとう・・・。
感動というより、うれしくてうれしくて仕方なかった。
助産院では、不必要な医療行為は行わない。
浣腸も剃毛もしないし、会陰切開もしないので(よっぽどの場合はします)、私は出来るだけ、M先生のリードの従い、いきみを調節していたつもりだったが、カンチが生まれる直前の、いきんではいけない時期にちょっといきんでしまったので、会陰が少し裂傷を起こしてしまった。
深いものではなかったので、M先生に縫合してもらったのだが、助産院では医薬品は使えないのだ。
ちょっと小さめの胎盤が娩出された後、私は、麻酔なしで縫合に立ち向かうことになった。
・・・もちろん、飛び上がったのは、いうまでもない。
裂傷が深くなかったのが幸いだ。
コレは、陣痛より痛かったのだ。
私がM助産院に入院したのが、午後1時。
カンチが生まれたのは、午後3時。
本当に安産だった。
私は、陣痛はもっと痛くなるものだとばかり思っていたので、「あれ?もう生まれるの?」という感じだった。
決して痛くなかったわけじゃない。
陣痛はもちろん痛いのだが、これからもっともっと痛くなるという気持が強かったので、頑張れたのかもしれない。
分娩時間は、ちょうど12時間。
陣痛開始は、始めから5分おき。
それに、実家で頑張ってよかった。
実習に来ていた助産婦学生達も、2時間付き合ってくれた。
実り多い、実習になっただろうか。
しかし、お産の後、「ありがとうございました。」という挨拶はないだろう。
お産前にも書いたが、もっと普通の妊産婦さんみたいに「良かったですね。おめでとうございます。」と、ねぎらってよ・・・。
(言ってくれる子もいたけど)
夕方近くのお産だったが、M先生は「もう、自分で看れるやろ」とおっしゃり、私は甘えることも許されず、生んだその夜からカンチの面倒を看ることとなった。
お産当日、子供の面倒を見るのは、今の時代私だけだと思いながら、カンチと一緒に寝た。
ふにゃふにゃ言ってくると、私は母乳を含ませる。
授乳中、私のお腹がきゅるきゅる鳴ると、カンチは聞こえてるのか、びっくりしていた。
お産当日の夜も、カンチの世話でゆっくり眠れなかったが、いろんなことに対して気分がハイになってたし、しんどいとは思わなかった。
それよりも、何だか仕事をしてるみたいな感じ。
私は、淡々と仕事をこなしている。
それも夜勤だ(笑)
仕事と違うのは、世話をしている赤ちゃんが自分の子供で、ミルクやブドウ糖ではなく、自分の母乳を与えてるということだけだ。
その後も、母乳も良く出、子宮の戻りも良く、カンチの黄疸の心配も無かった。
そして、M先生はおっしゃった。
私の後、お産を控えてる妊婦さんの予定日までしばらく日にちが空くので、お母さんのお墓参りに行きたいとおっしゃった。
それはきっと、私に助産婦なんだから、早く退院しなさいと言ってるのだなーと思い(私が普通のお母さんだったら、M先生もそんなことはもちろん言わないだろうが)お産後4日で退院した。
すでに母乳で大丈夫だったし、不思議と私は心配が無かった。
これから、カンチとの生活が始まることで、心がいっぱいいっぱいだった。
(でも、私が助産婦であるがゆえに、自分のお産で経験しないことまで経験してしまった。お産のときもビデオに撮ってと夫に頼んだが、夫は何を思ったのか学生にそれを依頼したので、撮られたビデオを見ると、家族向けの感動的なお産ではなく、助産婦学生の勉強のためのようなシーンばかりであった。そんなの後からカンチと見れないよ・・・。)
私は予定日の次の日、40週1日でカンチを生んだ。
ちょうどその前日の予定日に、妊婦健診に当たっていたが、内診ではお産になる日はまだ先になるかと言う診断であった。
M先生(私は助産院に掛かっていたので、このM先生と言うのは医師ではなく助産婦)は、「お産が少しでも早く迎えられるように、おまじないをしておこう。」とおっしゃり、卵膜剥離を施してくださった。
卵膜剥離とは、子宮内膜と赤ちゃんを包んでいる卵膜が密着しているので、それをそっと内診指ではがしていくことだ。
その剥離した刺激で、子宮収縮(陣痛)が起こるので、お産につながっていくのだ。
それまでは、なんとなく規則的になったり遠のいたりする「前駆陣痛」はあったのだが。
私はその健診の後、今までより少し良く張るお腹をさすりながら、帰宅した。
自宅からお産をするM助産院まで、電車を乗り継いで通っていた。
2時間近く通院時間は掛かっていたのだが、その日は途中のデパートで雑貨屋を見たり、1人でお茶を飲んだり、子供服を見たり、かなり寄り道をしてから帰宅した。
通算3〜4時間は歩いていただろうか。
そのときも、かなり下腹が張っていた。
その日の入浴は、いつもより念入りに乳頭のマッサージをし、できるだけ子宮収縮を自分で起こすようにしていた。
入浴中も、お腹はよく張り、カンチも元気に動いていた。
産休に入っていた私は、かなりの夜型人間になっていたので、その日も午前1時過ぎに布団に入り、「明日もよく歩くぞ」と、考えながら眠りに入った。
うとうと眠っていた私は、お腹の痛みで目が覚めた。
午前3時。
あれから2時間しか経ってない。
お腹の痛みは、下痢の痛みに似ていたので、私はトイレに行ったのだが、どうも下痢では無い様子。
トイレに座っていると、何だかこの痛みは規則的に来て、お腹もかなり固くなっている。
今までの前駆陣痛とは、ちょっと痛みも違う。
「ええ〜、まさか陣痛?」
だって、昨日の診察では、お産はまだ先と言われていたぞ。
布団に戻って眠ることにしたが、なんだか興奮とお腹の痛みで眠れない。
時計で時間を測ってみると、お腹の痛みは5分おきに来ている。
やっぱり陣痛だ!
でも陣痛が来だしたところなので、今すぐ生まれるわけでもなく、やっぱり朝まで様子を見ることにした。
カンチは元気に動いていた。
私は何だかわくわくしていた。
本当に楽しみだったのだ。
6時になり、陣痛感覚は縮まらず5分おきだったものの、痛みはかなり強くなっている。
朝の診察の準備もする頃だろうし、私はM助産院に電話をした。
M先生もちょっとびっくりなさり、朝の通勤ラッシュに重ならないように来院するよう、指示してくださった。
私は当時の夫の実家と、目と鼻の先にマンションを借りていたので、とりあえず仕事に行く夫の変わりに、義父母に車で連れて行ってもらうことになった。
私は助産婦なので、そんなに付き添いも要らないし、大丈夫と言ったのだが、義父母にすれば初めての内孫なので、彼らの気持を尊重することにし、一緒に行ってもらった。
M助産院に着いたのは、8時を回っていた。
M先生は、ニコニコと笑顔で私を迎えてくださった。
M助産院に着くと、まず分娩監視装置を装着し、陣痛とお腹のカンチの元気な様子を診断する。
相変わらず陣痛は5分おきだが、強くはなってきている。
そしてカンチは元気だ。
内診していただくと、子宮口は3センチ開大している。
昨日の卵膜剥離のおかげなのか、すごいすごい。
でも、お産までにはまだ時間は掛かるので、私はいったん帰宅することにした。
幸い、自宅より私の実家のほうがM助産院まで近く、車で10分の距離だ。
自宅には帰らずに、実家に帰り、しばらくゆっくり様子を見ることにした。
そのときM先生は「はい!」と言って、お産のときに使用する清潔グローブを私に手渡した。
コレは、私に自分で内診しろということだ。
「自分で内診して、いい時期にまた来なさい。」とおっしゃった。
うわさには聞いていたが、やっぱり助産婦は自分のお産のとき、自分で内診しないといけないのか・・・と、こんなときまで仕事をする自分が、何だかなーと思ってしまった。
帰宅前にトイレに行った私は、そこで初めて出血(おしるし)を見、いよいよお産になるのだなーと感じていた。
実家に帰った私は、母にお風呂を沸かしてもらい、ゆっくり入浴した。
体を温めると血行が良くなるため、子宮の周りの血液循環も良くなり、お産の進みが早いのだ。
その後、母におかゆを作ってもらった。
朝食をとってなかった私は、お腹が空いてるはずなのに、痛みで胸やけがし、少しだけしか食べられなかった。
午前中の仕事を終え、夫が実家にやってきた。
ちょうどお昼だったが、痛みは強くなってるのに、相変わらず陣痛間隔は5分おきなのだ。
私の体は、いったいどれだけお産が進んでいるのだろう。
私は意を決してトイレに入り、清潔グローブを右手にはめ、自分で診察してみた。
痛いのに、なんで私は仕事をしてるんだと思ったが、子宮口は6センチ開大してると、私は診断した。
カンチの頭も、随分下に下がってきている。
よっしゃ!と、私は、必死に呼吸法をしながら、夫の車に乗った。
車の揺れもあったのか、急に陣痛が進んで、間隔が3分おきになっていった。
その週はちょうど、私の卒業した助産婦学校の学生(つまり後輩)の、助産所見学実習の週であったので、M先生も学校に連絡をし、私が着いた頃には、10人くらいの助産婦学生がすでに到着していた。
「みなみさん、よろしくお願いします。」と、学生達は挨拶したが、コレは仕事じゃないっての。
私のお産だよ。
この挨拶は、なんか変だよ。
せめて「頑張ってください。」って普通の妊産婦さんに接するように、応援してよ(涙)
M助産院に到着してすぐM先生は診察してくださった。
子宮口は8センチ開いてる。
結構進んだもんだ。
ただ、カンチの頭の向きがまだ反対だったので、椅子にうつぶせになるようにもたれ、カンチの頭が正常な位置に回れるように、過ごした。
夫も腰をさすってくれたが、学生達も次々と腰をさすってくれたり、見守ってくれたりしたので、私は心強かった。
そして、ついにいきみたい感覚に襲われ、分娩場であるベッドへ移った。
(助産院では、陣痛も好きな格好で過ごせるし、自由なのです。畳の部屋で生むことも出来るのよ。)
そして、お産の準備が出来ると、M先生は人工破膜(自然に破水しない場合、お産の介助者が人工的に破水させること。卵膜をコッヘルという器械で、引っ掛けて破き、破水させるのです。)を施し、数回いきみをかけていった。
途中、カンチの頭にも触らせてもらい、M先生は「自分でお産とりあげれるなー」と、冗談をおっしゃった。
その後も数回いきんだだけで、カンチはとても元気に生まれてきてくれた。
体重2880グラム、アプガールスコアも1分後は9点!!
すごくうれしくて、早く顔を見たかった。
ああ、こんな顔だったのか、あなたは。
生まれてきてくれてありがとう。
お母さんを安産にしてくれて、ありがとう・・・。
感動というより、うれしくてうれしくて仕方なかった。
助産院では、不必要な医療行為は行わない。
浣腸も剃毛もしないし、会陰切開もしないので(よっぽどの場合はします)、私は出来るだけ、M先生のリードの従い、いきみを調節していたつもりだったが、カンチが生まれる直前の、いきんではいけない時期にちょっといきんでしまったので、会陰が少し裂傷を起こしてしまった。
深いものではなかったので、M先生に縫合してもらったのだが、助産院では医薬品は使えないのだ。
ちょっと小さめの胎盤が娩出された後、私は、麻酔なしで縫合に立ち向かうことになった。
・・・もちろん、飛び上がったのは、いうまでもない。
裂傷が深くなかったのが幸いだ。
コレは、陣痛より痛かったのだ。
私がM助産院に入院したのが、午後1時。
カンチが生まれたのは、午後3時。
本当に安産だった。
私は、陣痛はもっと痛くなるものだとばかり思っていたので、「あれ?もう生まれるの?」という感じだった。
決して痛くなかったわけじゃない。
陣痛はもちろん痛いのだが、これからもっともっと痛くなるという気持が強かったので、頑張れたのかもしれない。
分娩時間は、ちょうど12時間。
陣痛開始は、始めから5分おき。
それに、実家で頑張ってよかった。
実習に来ていた助産婦学生達も、2時間付き合ってくれた。
実り多い、実習になっただろうか。
しかし、お産の後、「ありがとうございました。」という挨拶はないだろう。
お産前にも書いたが、もっと普通の妊産婦さんみたいに「良かったですね。おめでとうございます。」と、ねぎらってよ・・・。
(言ってくれる子もいたけど)
夕方近くのお産だったが、M先生は「もう、自分で看れるやろ」とおっしゃり、私は甘えることも許されず、生んだその夜からカンチの面倒を看ることとなった。
お産当日、子供の面倒を見るのは、今の時代私だけだと思いながら、カンチと一緒に寝た。
ふにゃふにゃ言ってくると、私は母乳を含ませる。
授乳中、私のお腹がきゅるきゅる鳴ると、カンチは聞こえてるのか、びっくりしていた。
お産当日の夜も、カンチの世話でゆっくり眠れなかったが、いろんなことに対して気分がハイになってたし、しんどいとは思わなかった。
それよりも、何だか仕事をしてるみたいな感じ。
私は、淡々と仕事をこなしている。
それも夜勤だ(笑)
仕事と違うのは、世話をしている赤ちゃんが自分の子供で、ミルクやブドウ糖ではなく、自分の母乳を与えてるということだけだ。
その後も、母乳も良く出、子宮の戻りも良く、カンチの黄疸の心配も無かった。
そして、M先生はおっしゃった。
私の後、お産を控えてる妊婦さんの予定日までしばらく日にちが空くので、お母さんのお墓参りに行きたいとおっしゃった。
それはきっと、私に助産婦なんだから、早く退院しなさいと言ってるのだなーと思い(私が普通のお母さんだったら、M先生もそんなことはもちろん言わないだろうが)お産後4日で退院した。
すでに母乳で大丈夫だったし、不思議と私は心配が無かった。
これから、カンチとの生活が始まることで、心がいっぱいいっぱいだった。
(でも、私が助産婦であるがゆえに、自分のお産で経験しないことまで経験してしまった。お産のときもビデオに撮ってと夫に頼んだが、夫は何を思ったのか学生にそれを依頼したので、撮られたビデオを見ると、家族向けの感動的なお産ではなく、助産婦学生の勉強のためのようなシーンばかりであった。そんなの後からカンチと見れないよ・・・。)
私は、高校卒業後、某国立病院付属の看護学校に入学したけれど、看護学校の臨床実習は、それはそれは、厳しく、楽しく、思い出に残るものであった。(助産婦学校はもう思い出したくも無いくらい、実習はつらかったけど)
今でこそ、看護学校のカリキュラムは変更され、実習単位は少なくなり、看護論理を学ぶべく机上の授業が多くなっているが、私達の頃13〜4年前は、まだまだ実習が多かった頃であった。
実習は、1年生から約2週間の基礎実習という形でスタートされる。
入学して約半年、看護婦のシンボルとも言えるナースキャップをつけることが許される厳かな式典「戴帽式」の後(今は、この戴帽式もない学校が多いらしい。ナースキャップが結局不潔で細菌感染の原因になったり、キャップのとがった部分が患者さんに当たったりして、危険だからという理由で、ナースキャップをかぶらない病院も多いのだ)、いよいよ実習が始まる。
基礎実習は、バイタルサインといって、検温や血圧測定、一般状態の観察や、体位変換、清拭、排泄や食事の介助、ベッドメーキングといった、基本的な看護を受け持ち患者さんを通して学んでいくのだ。
そして実践のほか、看護計画を立案し、実際の看護における問題点や考察を行い、次の看護に結び付けていくという、看護記録の方法を身につけていく。
2年生になると、成人看護実習といって、外科や内科、整形外科、神経科など、成人の患者さんを通して、各論を学んでいく。
そしていよいよ3年生。
産科、小児科、精神科、手術室、中央材料滅菌室(ガーゼや綿花、手術等で使用する医療器械を滅菌して、セッティングするところ)、外来など、少し特殊な科目の実習に入る。
2年生で行った、成人の各論実習と平行で行われるので、3年生になれば、とても大変な実習となる。
私はこの中で、手術室の実習(通称オペ室実習)がとても印象に残っている。
今ではもう到底出来ないような、貴重な実習(経験)をさせて頂いたからだ。
総合の国立病院であったため、いろんな患者さんのオペが毎日のように行われていた。
婦人科の子宮筋腫のオペ、脳外科の開頭術(ドリルで頭蓋骨を開け、脳に張り付いてる血腫を取り除いたりするの)、整形外科の顕微鏡科でのヘルニアのオペや大腿骨頭置換術(お年寄りなどで、足の付け根が骨盤から抜けて折れてしまうので、それの治療)、外科の胃や腸のオペなど、いろんなオペを見学することが出来た。
しかし、実習は見学だけではない。
オペに使用する医療器械(メスとか、クーパーとかはさみのようなものなど)の名称や形を覚えねばならないのだ。
バカほど種類もサイズも豊富なので、覚えるだけで大変だ。
そして、このオペにはこの器械が必要、サイズは何、いくつ必要、この医師にはこの器械が必要など、いくつも覚えることが山のようにある。
そして、私達は看護婦の卵なので、オペ室での看護についても学ばなくてはいけない。
オペといえば、そう、ドラマでも出てくる通り、医師が「メス!」といえば、メスを医師に渡す、直接介助のあの役だ。
そして、オペを進行しやすくするために、直接オペに携わらず、外回りを行う看護・間接介助という、役がある。
間接介助は、学生でもなんとか足を引っ張りながらでも動き回れるのだが(散々指導者のナースに怒られたが)、直接介助となると、話が違う。
そして、私の学校では、虫垂炎の手術(みんなが盲腸というヤツね)でなら、学生にも直接介助のチャンスがあるので、緊急にオペが入った場合に備え、各自自習し、誰が当たっても良いようにしておかなくてはならなかった。
虫垂炎のオペは、比較的使用する器械も少なく簡単で、オペ時間も短く、学生にはもってこいのチャンスだった。
しかし、そうそうたくさん数があるわけじゃない。
学生が当たるチャンスは、40人で1〜2人という確立だ。
私達のグループも、オペが無いときはデモストなどを行い、自習に励んでいた(少々サボりながら)
そして、ある日、午後から虫垂炎のオペが入るという連絡を受けた。
前もって、順番を決めていた私達だったが、順番で一番最初に当たったクラスメートが「私は絶対に出来ない〜!!!!」と、言い出したもんだから、2番目の私に順番が回ってきてしまった。
みんな「そうやそうや、みなみが行きや」などといい加減なことばかり言いたおす。
誰かが行かないと、このせっかくのチャンスが流れてしまう。
私は、もうすでに助産婦になる意思があったので、ここでこういう経験をしておかないと、もう2度と経験できないと思い、意を決して婦長に申し出、私がさせて頂くことに決まった。
オペが始まるまで、1時間あまり。
器械の名前を復習し、医師に手渡す順番や医師が操作しやすいように渡さなければならないので、手渡す器械の向きや、そんなことをもう一度デモストした。
いつもは怖い怖い婦長も、このときばかりはとても熱心に指導してくださり、ありがたかった。
ものすごい緊張と不安のあまり、もう逃げ出したかったけど、ココで経験しないともう一生後悔するだろうと自分に言い聞かせた。
あんなに長く感じられた1時間を、私はかつて過ごしたことが無かったくらいだ。
もう頭の中は、器械の名前がぐるぐる回り、患者さんが男か女か、若いのか年配なのか、そんなことさえもわからなくなっていた。
患者さんが運び込まれる。
私は婦長とともに、手洗いの準備に入る。
ガウンを着る。
手袋をはめる。
しかし、婦長は手洗いはしない。
あくまでも、私が直接介助の担当なのだ。
婦長は支持をするだけだ。
オペは、医師と学生の私だけで行われるのだ。
患者さんに麻酔が施され、いよいよオペが始まる。
同じグループのメンバーも緊張した様子で見学している。
私は、医師が言う器械をどんどん手渡していく。
使用し終わった血液の付いた器械を受け取り、消毒ベースンに入れ、また新しい器械を手渡す。
あんなに練習したのに、器械の向きが正しくない。
普段怖いN医師であったが、このときはやさしく「この方向で渡してくれ」と言ってくださった。
スイマセンと私は言ったが、マスクをつけていたせいで、聞き取れなかっただろう。
何とか無事オペは終了した。
N医師も「ごくろうさん」と言ってくださり、婦長も「がんばったわね、いい経験だったわね」と言ってくださった。
上手に出来たわけじゃない。
機敏にオペが運んだとも思えない。
もたもたしていて、あせっていたし、患者さんがどんな方なのか、そんな基本的な情報さえ収集出来ずにいたし、看護というにはあまりにもずさんだったかもしれない。
でも、達成感だけはあった。
貴重な経験だった。
看護婦として働いても、オペ室に配属にならないと、こういう経験は出来ないのだから。
そして、助産婦になると決めていた私は、もう2度とこういう経験は出来ないのだから。
今でも、鮮明に覚えている、看護学校時代の思い出である。
余談・・・。
このオペ室実習で、学生の指導者の担当だったナースと、その後今の職場で再会。
彼女はあれから保健婦と助産婦の資格を取りに進学し、保健婦となって働いていたのだ。
4年先輩だけど、今では大の仲良しです(^^)
今でこそ、看護学校のカリキュラムは変更され、実習単位は少なくなり、看護論理を学ぶべく机上の授業が多くなっているが、私達の頃13〜4年前は、まだまだ実習が多かった頃であった。
実習は、1年生から約2週間の基礎実習という形でスタートされる。
入学して約半年、看護婦のシンボルとも言えるナースキャップをつけることが許される厳かな式典「戴帽式」の後(今は、この戴帽式もない学校が多いらしい。ナースキャップが結局不潔で細菌感染の原因になったり、キャップのとがった部分が患者さんに当たったりして、危険だからという理由で、ナースキャップをかぶらない病院も多いのだ)、いよいよ実習が始まる。
基礎実習は、バイタルサインといって、検温や血圧測定、一般状態の観察や、体位変換、清拭、排泄や食事の介助、ベッドメーキングといった、基本的な看護を受け持ち患者さんを通して学んでいくのだ。
そして実践のほか、看護計画を立案し、実際の看護における問題点や考察を行い、次の看護に結び付けていくという、看護記録の方法を身につけていく。
2年生になると、成人看護実習といって、外科や内科、整形外科、神経科など、成人の患者さんを通して、各論を学んでいく。
そしていよいよ3年生。
産科、小児科、精神科、手術室、中央材料滅菌室(ガーゼや綿花、手術等で使用する医療器械を滅菌して、セッティングするところ)、外来など、少し特殊な科目の実習に入る。
2年生で行った、成人の各論実習と平行で行われるので、3年生になれば、とても大変な実習となる。
私はこの中で、手術室の実習(通称オペ室実習)がとても印象に残っている。
今ではもう到底出来ないような、貴重な実習(経験)をさせて頂いたからだ。
総合の国立病院であったため、いろんな患者さんのオペが毎日のように行われていた。
婦人科の子宮筋腫のオペ、脳外科の開頭術(ドリルで頭蓋骨を開け、脳に張り付いてる血腫を取り除いたりするの)、整形外科の顕微鏡科でのヘルニアのオペや大腿骨頭置換術(お年寄りなどで、足の付け根が骨盤から抜けて折れてしまうので、それの治療)、外科の胃や腸のオペなど、いろんなオペを見学することが出来た。
しかし、実習は見学だけではない。
オペに使用する医療器械(メスとか、クーパーとかはさみのようなものなど)の名称や形を覚えねばならないのだ。
バカほど種類もサイズも豊富なので、覚えるだけで大変だ。
そして、このオペにはこの器械が必要、サイズは何、いくつ必要、この医師にはこの器械が必要など、いくつも覚えることが山のようにある。
そして、私達は看護婦の卵なので、オペ室での看護についても学ばなくてはいけない。
オペといえば、そう、ドラマでも出てくる通り、医師が「メス!」といえば、メスを医師に渡す、直接介助のあの役だ。
そして、オペを進行しやすくするために、直接オペに携わらず、外回りを行う看護・間接介助という、役がある。
間接介助は、学生でもなんとか足を引っ張りながらでも動き回れるのだが(散々指導者のナースに怒られたが)、直接介助となると、話が違う。
そして、私の学校では、虫垂炎の手術(みんなが盲腸というヤツね)でなら、学生にも直接介助のチャンスがあるので、緊急にオペが入った場合に備え、各自自習し、誰が当たっても良いようにしておかなくてはならなかった。
虫垂炎のオペは、比較的使用する器械も少なく簡単で、オペ時間も短く、学生にはもってこいのチャンスだった。
しかし、そうそうたくさん数があるわけじゃない。
学生が当たるチャンスは、40人で1〜2人という確立だ。
私達のグループも、オペが無いときはデモストなどを行い、自習に励んでいた(少々サボりながら)
そして、ある日、午後から虫垂炎のオペが入るという連絡を受けた。
前もって、順番を決めていた私達だったが、順番で一番最初に当たったクラスメートが「私は絶対に出来ない〜!!!!」と、言い出したもんだから、2番目の私に順番が回ってきてしまった。
みんな「そうやそうや、みなみが行きや」などといい加減なことばかり言いたおす。
誰かが行かないと、このせっかくのチャンスが流れてしまう。
私は、もうすでに助産婦になる意思があったので、ここでこういう経験をしておかないと、もう2度と経験できないと思い、意を決して婦長に申し出、私がさせて頂くことに決まった。
オペが始まるまで、1時間あまり。
器械の名前を復習し、医師に手渡す順番や医師が操作しやすいように渡さなければならないので、手渡す器械の向きや、そんなことをもう一度デモストした。
いつもは怖い怖い婦長も、このときばかりはとても熱心に指導してくださり、ありがたかった。
ものすごい緊張と不安のあまり、もう逃げ出したかったけど、ココで経験しないともう一生後悔するだろうと自分に言い聞かせた。
あんなに長く感じられた1時間を、私はかつて過ごしたことが無かったくらいだ。
もう頭の中は、器械の名前がぐるぐる回り、患者さんが男か女か、若いのか年配なのか、そんなことさえもわからなくなっていた。
患者さんが運び込まれる。
私は婦長とともに、手洗いの準備に入る。
ガウンを着る。
手袋をはめる。
しかし、婦長は手洗いはしない。
あくまでも、私が直接介助の担当なのだ。
婦長は支持をするだけだ。
オペは、医師と学生の私だけで行われるのだ。
患者さんに麻酔が施され、いよいよオペが始まる。
同じグループのメンバーも緊張した様子で見学している。
私は、医師が言う器械をどんどん手渡していく。
使用し終わった血液の付いた器械を受け取り、消毒ベースンに入れ、また新しい器械を手渡す。
あんなに練習したのに、器械の向きが正しくない。
普段怖いN医師であったが、このときはやさしく「この方向で渡してくれ」と言ってくださった。
スイマセンと私は言ったが、マスクをつけていたせいで、聞き取れなかっただろう。
何とか無事オペは終了した。
N医師も「ごくろうさん」と言ってくださり、婦長も「がんばったわね、いい経験だったわね」と言ってくださった。
上手に出来たわけじゃない。
機敏にオペが運んだとも思えない。
もたもたしていて、あせっていたし、患者さんがどんな方なのか、そんな基本的な情報さえ収集出来ずにいたし、看護というにはあまりにもずさんだったかもしれない。
でも、達成感だけはあった。
貴重な経験だった。
看護婦として働いても、オペ室に配属にならないと、こういう経験は出来ないのだから。
そして、助産婦になると決めていた私は、もう2度とこういう経験は出来ないのだから。
今でも、鮮明に覚えている、看護学校時代の思い出である。
余談・・・。
このオペ室実習で、学生の指導者の担当だったナースと、その後今の職場で再会。
彼女はあれから保健婦と助産婦の資格を取りに進学し、保健婦となって働いていたのだ。
4年先輩だけど、今では大の仲良しです(^^)
助産婦学校を卒業すれば(国家試験を受けて、それに合格すれば)晴れて、助産婦として仕事が出来ます。
私もどんなことがあっても、最低3年間は仕事を辞めるまいと思いましたが(臨床経験が最低3年あると、開業する資格が出来るのです)3年半が経った頃、思いがけない事情で退職するにいたりました。
そうです、離婚です。
離婚するのなら、仕事は続けていたほうが、経済的な心配がなくてもちろんいいのですが、何しろ離婚の原因が原因だったので、助産婦として仕事をしていくことが辛くなったのです。
離婚の原因は、元夫の浮気(本気)と相手の女性の妊娠でした。
それに加え、元夫から離婚を言い渡され、その女性と一緒になりたいとも言われました。
お腹の子が生まれるまでに離婚してくれ、カンチはお前が育ててくれ、そんなことがあるのでしょうか。
当時、カンチは1歳5ヶ月でした。
妻としての立場の私は、相手の女性に妊娠中絶を迫り、助産婦としての立場の私は、妊婦さんたちにいいお産が出来るよう、笑顔で応援している。
こんな精神状態では助産婦としてやっていく自信が全然ないと考えた私は「もう、助産婦として仕事は一生出来ない」とまで思いつめ、その後は1年ほど友人の化粧品の仕事を手伝ったりしていました。
あるとき、助産婦学校の教務から「保健所(今の健康プラザ)で、保健婦の産休代替を探している」と言われ、私は保健婦の資格はないのですが、当時はまだ母子保健が都道府県でなされていたときだったので、助産婦にぜひ来て欲しいということもあり(実は臨床ほど妊婦さんと接する機会がないだろうと言う思いもあり)その仕事を引き受けることにしました。
それが、実は地域の魅力に取り付かれた一歩だったのです。
未熟児や新生児の家庭訪問では、お産が終わって退院してこられたお母さんやその家族が対象です。
今までは臨床という、お産から1週間ほどのお母さんや赤ちゃんたちとしか接する機会が無かった私にとって、退院してからこそが助産婦のニードが重要だと言うことをはっきり感じさせられたのです。
私の中で、何か痞えてたものが取れて行きました。
もう、助産婦の仕事は出来ないと思っていた私は、その約1年後、助産婦の魅力に改めてとりつかれてしまったのです。
それからは地域の仕事がおもしろくて魅力的で。
ある意味、お産の介助をすることより、充実していると感じました。
助産婦の仕事の醍醐味は、なんと行っても分娩介助です。
新しい命の誕生に立ち会えることが出来るというすばらしい反面、命に関わる現場ですので
大きな緊張感も常に持っていなければなりません。
お産には助産婦の資格がある限り、いつでも復帰できますが、地域の仕事は選ばないとできないのです。
3ヶ月の赤ちゃんの発達やその時期のお母さんの母乳の状態は、臨床では経験できなかったことです。
離婚当時の、あの葛藤は何だったのだろう。
助産婦であるがゆえに苦しんだ経験が、今となってはばねになっています。
自分の苦い経験を反面教師として、お母さん達に伝えて行くことが出来ます。
ああ、結局私は助産婦なのだなあと、ようやく苦い過去も今の仕事の糧にすることが出来てきました。
(でも、助産婦の資格だけに甘えていても、進歩はないのですけどね。いろんなことにチャレンジしていかないとね)
私もどんなことがあっても、最低3年間は仕事を辞めるまいと思いましたが(臨床経験が最低3年あると、開業する資格が出来るのです)3年半が経った頃、思いがけない事情で退職するにいたりました。
そうです、離婚です。
離婚するのなら、仕事は続けていたほうが、経済的な心配がなくてもちろんいいのですが、何しろ離婚の原因が原因だったので、助産婦として仕事をしていくことが辛くなったのです。
離婚の原因は、元夫の浮気(本気)と相手の女性の妊娠でした。
それに加え、元夫から離婚を言い渡され、その女性と一緒になりたいとも言われました。
お腹の子が生まれるまでに離婚してくれ、カンチはお前が育ててくれ、そんなことがあるのでしょうか。
当時、カンチは1歳5ヶ月でした。
妻としての立場の私は、相手の女性に妊娠中絶を迫り、助産婦としての立場の私は、妊婦さんたちにいいお産が出来るよう、笑顔で応援している。
こんな精神状態では助産婦としてやっていく自信が全然ないと考えた私は「もう、助産婦として仕事は一生出来ない」とまで思いつめ、その後は1年ほど友人の化粧品の仕事を手伝ったりしていました。
あるとき、助産婦学校の教務から「保健所(今の健康プラザ)で、保健婦の産休代替を探している」と言われ、私は保健婦の資格はないのですが、当時はまだ母子保健が都道府県でなされていたときだったので、助産婦にぜひ来て欲しいということもあり(実は臨床ほど妊婦さんと接する機会がないだろうと言う思いもあり)その仕事を引き受けることにしました。
それが、実は地域の魅力に取り付かれた一歩だったのです。
未熟児や新生児の家庭訪問では、お産が終わって退院してこられたお母さんやその家族が対象です。
今までは臨床という、お産から1週間ほどのお母さんや赤ちゃんたちとしか接する機会が無かった私にとって、退院してからこそが助産婦のニードが重要だと言うことをはっきり感じさせられたのです。
私の中で、何か痞えてたものが取れて行きました。
もう、助産婦の仕事は出来ないと思っていた私は、その約1年後、助産婦の魅力に改めてとりつかれてしまったのです。
それからは地域の仕事がおもしろくて魅力的で。
ある意味、お産の介助をすることより、充実していると感じました。
助産婦の仕事の醍醐味は、なんと行っても分娩介助です。
新しい命の誕生に立ち会えることが出来るというすばらしい反面、命に関わる現場ですので
大きな緊張感も常に持っていなければなりません。
お産には助産婦の資格がある限り、いつでも復帰できますが、地域の仕事は選ばないとできないのです。
3ヶ月の赤ちゃんの発達やその時期のお母さんの母乳の状態は、臨床では経験できなかったことです。
離婚当時の、あの葛藤は何だったのだろう。
助産婦であるがゆえに苦しんだ経験が、今となってはばねになっています。
自分の苦い経験を反面教師として、お母さん達に伝えて行くことが出来ます。
ああ、結局私は助産婦なのだなあと、ようやく苦い過去も今の仕事の糧にすることが出来てきました。
(でも、助産婦の資格だけに甘えていても、進歩はないのですけどね。いろんなことにチャレンジしていかないとね)
看護学校を卒業した私は、何とか1箇所だけ受かった助産婦学校に入学しました。
(試験に弱いのう・・・)
助産婦学校は、看護学校とは比べ物にならないほどの大変さがあるとは聞いてたので、またもや寮に入ることにしました。
今度は看護学校とは違い、個室で自炊をしなければなりませんでした。
学生の顔ぶれもいろいろです。
私のように、ストレートで入学した者もいれば、看護婦として何年か働いてから助産婦学校に入学する者もいます。
年上のクラスメイトとの生活もとても楽しく、いろんな看護の話も聞けたりして、勉強になりました。
とても良かったです。
さて、入学して1ヶ月もすると、臨床実習が始まりました。
模型で分娩介助の練習をし、教官から合格をもらえないと実習に出ることは出来ません。
「産科学」は、看護学校でももちろん勉強は終えてるのですが、もっと詳しい知識が必要です。
そして、知識だけでなく、助産婦には技術と言うものが大きく伴います。
内診の技術・分娩介助の技術・乳房管理の技術など、いろんな技術を学ばなくてはなりません。
学生なんて、素人同然、全然へたくそで、何度も教官に怒られていました。
助産婦の大きな仕事は分娩の介助です。
命にも大きく関わる場面なので、助産婦教育としては1年間(助産婦学校は1年間なの)で、10例の分娩を取り上げなくてはなりません。
10例では少なすぎると言う声もあるそうですが、それが精一杯なのです。
私はとても恵まれ、学生時代は12例の分娩介助をさせていただくことができました。
分娩だけでなく、新生児の看護や妊娠管理(マタニティクラスをはじめ)も、大きな仕事の一つです。
妊娠・出産は病気ではないので、多くの女性はその時期を家で過ごされます。
妊婦さんにとって、良い妊娠期を過ごされてるか、異常にならないためにはどういうことに気をつければいいか・異常を発見したらどういう風にすればよいかなど、妊婦さんに対してアドバイスすることも大きな仕事でもあります。
「受け持ち妊婦さん」を、妊婦さん同意の上で関わらせていただき、その方の妊娠から出産時の分娩介助・生まれてきた赤ちゃんのお世話とお産が済んだその方の産褥の管理と、トータルに関わらせていただくことも大きな勉強です。
私の場合も、とても優しい妊婦さんとお会いすることが出来、そのとき取り上げさせていただいた赤ちゃんも、今では野球が大好きな男の子になりました。
子ども会の野球を頑張っている元気な男の子だ、と書いてある、年賀状を今年も頂きました。
さて、1年が過ぎる頃は、またまた卒論やグループでの助産研究と言うものにも追われ、みんな国家試験勉強もままならないまま国家試験を受け、でも、見事全員合格しました。
助産婦学校では、助産婦になりたいと言う気持ちが強くても、くじけそうになったり、もう辞めたいと思ったことが何度もありました。
なんでこんな仕事をしようと思ったのだろうと、何度も泣いていたときもありました。
でもあのとき頑張ったからこそ、こうして今の私があるんだなあと、今はあのときの自分に辞めないでくれてありがとうと、実は感謝する気持ちがいっぱいだったりして(^^)
(試験に弱いのう・・・)
助産婦学校は、看護学校とは比べ物にならないほどの大変さがあるとは聞いてたので、またもや寮に入ることにしました。
今度は看護学校とは違い、個室で自炊をしなければなりませんでした。
学生の顔ぶれもいろいろです。
私のように、ストレートで入学した者もいれば、看護婦として何年か働いてから助産婦学校に入学する者もいます。
年上のクラスメイトとの生活もとても楽しく、いろんな看護の話も聞けたりして、勉強になりました。
とても良かったです。
さて、入学して1ヶ月もすると、臨床実習が始まりました。
模型で分娩介助の練習をし、教官から合格をもらえないと実習に出ることは出来ません。
「産科学」は、看護学校でももちろん勉強は終えてるのですが、もっと詳しい知識が必要です。
そして、知識だけでなく、助産婦には技術と言うものが大きく伴います。
内診の技術・分娩介助の技術・乳房管理の技術など、いろんな技術を学ばなくてはなりません。
学生なんて、素人同然、全然へたくそで、何度も教官に怒られていました。
助産婦の大きな仕事は分娩の介助です。
命にも大きく関わる場面なので、助産婦教育としては1年間(助産婦学校は1年間なの)で、10例の分娩を取り上げなくてはなりません。
10例では少なすぎると言う声もあるそうですが、それが精一杯なのです。
私はとても恵まれ、学生時代は12例の分娩介助をさせていただくことができました。
分娩だけでなく、新生児の看護や妊娠管理(マタニティクラスをはじめ)も、大きな仕事の一つです。
妊娠・出産は病気ではないので、多くの女性はその時期を家で過ごされます。
妊婦さんにとって、良い妊娠期を過ごされてるか、異常にならないためにはどういうことに気をつければいいか・異常を発見したらどういう風にすればよいかなど、妊婦さんに対してアドバイスすることも大きな仕事でもあります。
「受け持ち妊婦さん」を、妊婦さん同意の上で関わらせていただき、その方の妊娠から出産時の分娩介助・生まれてきた赤ちゃんのお世話とお産が済んだその方の産褥の管理と、トータルに関わらせていただくことも大きな勉強です。
私の場合も、とても優しい妊婦さんとお会いすることが出来、そのとき取り上げさせていただいた赤ちゃんも、今では野球が大好きな男の子になりました。
子ども会の野球を頑張っている元気な男の子だ、と書いてある、年賀状を今年も頂きました。
さて、1年が過ぎる頃は、またまた卒論やグループでの助産研究と言うものにも追われ、みんな国家試験勉強もままならないまま国家試験を受け、でも、見事全員合格しました。
助産婦学校では、助産婦になりたいと言う気持ちが強くても、くじけそうになったり、もう辞めたいと思ったことが何度もありました。
なんでこんな仕事をしようと思ったのだろうと、何度も泣いていたときもありました。
でもあのとき頑張ったからこそ、こうして今の私があるんだなあと、今はあのときの自分に辞めないでくれてありがとうと、実は感謝する気持ちがいっぱいだったりして(^^)
何とか国立病院付属の看護学校に入学でき(国立と言っても、大学と違うので、偏差値は雲泥の差です・・・)、私は寮生活も始めました。
全寮制ではなかったのですが、臨床実習が始まれば、ちょっと実家から通うのはしんどいかなと思ったのです。
寮生活の初日は、先輩達も歓迎会をしてくださり、とても楽しかったのですが、次の日からなんとホームシックにかかってしまったのです。
母から様子を伺う電話がかかってきた時は、涙をこらえるのが必死でした。
寮生活はそれなりに楽しいけれど、親と離れて暮らすと言うのが初めてだったので。
「そっちは寒いから風邪ひかないように気をつけなさい。」
・・・この言葉は今も覚えています。
両親に心から感謝したときでもありました。
ホームシックがおさまると、寮生活はだんだんパラダイスになってきます。
看護学校の3年間を振り返ってみると、実習のしんどさよりも、この寮生活の楽しかったことばかりが頭に浮かびます。
私にとって、とても良い経験でした。
寮生活での食事は、付属の病院の一般食を、学生にも出していただいてました。
日曜日は自炊でしたが。
でもおいしいおかずのときは良いけれど、やはり「これは・・・」と言うおかずの日もあります。
私は好き嫌いがあまり無いので、割と食べるほうでしたが(夜中にインスタントラーメンは、良く食ってたけど)友人の中には、白いごはんにマヨネーズとしょうゆをぶっかけて、ごはんをかっ込んでる人もいました。
食パンにマヨネーズを塗って焼いたり(自称マヨパン)いろんな食事背景を目にしていました(笑)
でも、ほんと楽しかったです(^^)
楽しい寮生活とは裏腹に、臨床実習は「しんどい・眠い」の一言しかありませんでした。
(でも、助産婦学校に比べたら、へでもなかったのね・・・)(←へ、だなんて)
今は随分とカリキュラムも変わりましたが、私たちの頃は、1年生の秋から実習が始まりました。
それまでは机の上の勉強ばかりですが、これからは机の上のみならず、実践を通して、看護学を学んでいくのです。
実習に入る前に、看護学生ならみんな待ち遠しい「載帽式」があります。
ナースキャップを初めて頭にかぶらせていただく、神聖な式典です。
コレがあって初めて「看護婦」という職業の責任の重さを痛感するのです。
ナイチンゲール誓詞とともに!!
でもそんなことより、私たちはナースキャップを身につけた喜びでいっぱいです。
恐怖の実習が待っていようとも想像できずに・・・。
最初ナースキャップは、自分たちの頭にしっくりこず(自分で組み立てるので)小さいのはまだ良いほうで、大きくて「ええ!?」と言うようなスタイルになったり、ゆがんでかぶったりとしているのですが、実習をこなすにつれ、だんだんと格好良くかぶれるようになって来ました。
(今は特に大学病院などでは、ナースキャップの清潔の是非について疑問があり、身につけない病院も多いですが)
1年生の基礎実習とは、患者さんのお熱や血圧を測ったり、環境整備やベッドメーキング、清拭や洗髪や排泄の介助を、実際の患者さんを通して勉強するのです。
(もちろん学校で学生同士で練習してからです。)
基礎実習を終え、2年になると週の2日が実習日(各論に入るので、外科とか内科とか小児科などを回ります)3年生になると夜間実習や手術室実習も入り、週の半分以上が実習日になります。
国家試験勉強もしなくてはならないし、卒業するための卒論だって仕上げないといけません。
実習をこなしながらです。
実習は現場に行って、体験して終わりなのではなく、その後の「看護記録」(日誌と呼ばれるもの)を書かなければいけません。
それがとてつもなく、時間がかかるのです。
実習の目標・それが達成できたかどうか・受け持ち患者さんの疾患の勉強・薬の勉強・その疾患に応じた看護・症状に応じた看護・それが出来なければなぜ出来なかったのか・では次はどんな看護を考えるのか・その患者さんにあった個別的な看護とは・・・などなど、書き出せばキリがありません。
看護婦と言うのは、医師の手伝いをするのではないので、独立した「看護学」と言うものを考えていかなければならない職業です。
また患者さんの疾患(体の問題)だけでなく、精神的な看護も大きな仕事のひとつです。
とにかくへとへとでしたが(もちろん、サボりも少々あり)私はなんとこの3年間を皆勤で過ごすことが出来、卒業式には皆勤賞として広辞苑を頂きました。
お、おもい・・・。
しんどいことも辛いことも、こわいことも腹が立つことも多かった看護学校生活ですが、同じ夢を持っている友人たちと支えあいながら、楽しい3年間を過ごすことが出来たと思います。
そして卒業式が過ぎると、助産婦学校に入学すること決まっていた私は、寮も出、実家に帰ったり、看護婦として就職するクラスメイト達と別れを告げたのでした。
全寮制ではなかったのですが、臨床実習が始まれば、ちょっと実家から通うのはしんどいかなと思ったのです。
寮生活の初日は、先輩達も歓迎会をしてくださり、とても楽しかったのですが、次の日からなんとホームシックにかかってしまったのです。
母から様子を伺う電話がかかってきた時は、涙をこらえるのが必死でした。
寮生活はそれなりに楽しいけれど、親と離れて暮らすと言うのが初めてだったので。
「そっちは寒いから風邪ひかないように気をつけなさい。」
・・・この言葉は今も覚えています。
両親に心から感謝したときでもありました。
ホームシックがおさまると、寮生活はだんだんパラダイスになってきます。
看護学校の3年間を振り返ってみると、実習のしんどさよりも、この寮生活の楽しかったことばかりが頭に浮かびます。
私にとって、とても良い経験でした。
寮生活での食事は、付属の病院の一般食を、学生にも出していただいてました。
日曜日は自炊でしたが。
でもおいしいおかずのときは良いけれど、やはり「これは・・・」と言うおかずの日もあります。
私は好き嫌いがあまり無いので、割と食べるほうでしたが(夜中にインスタントラーメンは、良く食ってたけど)友人の中には、白いごはんにマヨネーズとしょうゆをぶっかけて、ごはんをかっ込んでる人もいました。
食パンにマヨネーズを塗って焼いたり(自称マヨパン)いろんな食事背景を目にしていました(笑)
でも、ほんと楽しかったです(^^)
楽しい寮生活とは裏腹に、臨床実習は「しんどい・眠い」の一言しかありませんでした。
(でも、助産婦学校に比べたら、へでもなかったのね・・・)(←へ、だなんて)
今は随分とカリキュラムも変わりましたが、私たちの頃は、1年生の秋から実習が始まりました。
それまでは机の上の勉強ばかりですが、これからは机の上のみならず、実践を通して、看護学を学んでいくのです。
実習に入る前に、看護学生ならみんな待ち遠しい「載帽式」があります。
ナースキャップを初めて頭にかぶらせていただく、神聖な式典です。
コレがあって初めて「看護婦」という職業の責任の重さを痛感するのです。
ナイチンゲール誓詞とともに!!
でもそんなことより、私たちはナースキャップを身につけた喜びでいっぱいです。
恐怖の実習が待っていようとも想像できずに・・・。
最初ナースキャップは、自分たちの頭にしっくりこず(自分で組み立てるので)小さいのはまだ良いほうで、大きくて「ええ!?」と言うようなスタイルになったり、ゆがんでかぶったりとしているのですが、実習をこなすにつれ、だんだんと格好良くかぶれるようになって来ました。
(今は特に大学病院などでは、ナースキャップの清潔の是非について疑問があり、身につけない病院も多いですが)
1年生の基礎実習とは、患者さんのお熱や血圧を測ったり、環境整備やベッドメーキング、清拭や洗髪や排泄の介助を、実際の患者さんを通して勉強するのです。
(もちろん学校で学生同士で練習してからです。)
基礎実習を終え、2年になると週の2日が実習日(各論に入るので、外科とか内科とか小児科などを回ります)3年生になると夜間実習や手術室実習も入り、週の半分以上が実習日になります。
国家試験勉強もしなくてはならないし、卒業するための卒論だって仕上げないといけません。
実習をこなしながらです。
実習は現場に行って、体験して終わりなのではなく、その後の「看護記録」(日誌と呼ばれるもの)を書かなければいけません。
それがとてつもなく、時間がかかるのです。
実習の目標・それが達成できたかどうか・受け持ち患者さんの疾患の勉強・薬の勉強・その疾患に応じた看護・症状に応じた看護・それが出来なければなぜ出来なかったのか・では次はどんな看護を考えるのか・その患者さんにあった個別的な看護とは・・・などなど、書き出せばキリがありません。
看護婦と言うのは、医師の手伝いをするのではないので、独立した「看護学」と言うものを考えていかなければならない職業です。
また患者さんの疾患(体の問題)だけでなく、精神的な看護も大きな仕事のひとつです。
とにかくへとへとでしたが(もちろん、サボりも少々あり)私はなんとこの3年間を皆勤で過ごすことが出来、卒業式には皆勤賞として広辞苑を頂きました。
お、おもい・・・。
しんどいことも辛いことも、こわいことも腹が立つことも多かった看護学校生活ですが、同じ夢を持っている友人たちと支えあいながら、楽しい3年間を過ごすことが出来たと思います。
そして卒業式が過ぎると、助産婦学校に入学すること決まっていた私は、寮も出、実家に帰ったり、看護婦として就職するクラスメイト達と別れを告げたのでした。
中学の頃から英語が大好きだった私は、将来高校の英語の教師になりたいと思っていました。
でもそれには、結構レベルの高い、4年制の大学に行かねばなりません。
高校の1年から2年に進級するとき、そういう
大学に進学するための、クラス分けの試験に私は見事に落ちてしまい、私は教師の夢をあきらめないといけないのかなあと思っていたときでした。
高校から、ある大きな産科の病院に、思春期教育を受けに行くことになりました。
そこではその日生まれた赤ちゃんを見せてもらったり、お産が済んだお母さんとお話したり、病棟内の見学や、スライドを用いてのいわゆる「性教育」の講義もありました。
講義の最後に数名の看護婦が来て、見学した赤ちゃん達の胎盤や臍帯を持ってきました。
私のグループには、背筋をしゃんと伸ばしきりっとした、少し怖そうだけどとてもきれいな看護婦が来てくれました。
胎盤を初めて見た驚きとともに、その怖そうな彼女のとても優しい口調に「看護婦さんか、いいなあ」と、漠然と考えていました。
何気に彼女の胸についている名札を見ると「助産婦・○○(名字)」と、書いてあるではありませんか。
彼女は助産婦だったのです。
助産婦の仕事をあまり知らなかった私は、彼女にいろいろ質問しました。
そして、彼女はやっぱり優しく答えてくれました。
赤ちゃんがこの世に生まれて最初に対面する人間が助産婦だと言うこと、そして赤ちゃんに触れることの出来る最初の人間も助産婦だと言うことに、とても感動しました。
1人の人間の人生のスタートに、助産婦は携わることが出来るのです。
「助産婦さんか・・・」
もうそのときから、助産婦になりたいと思い始めていました。
将来の夢を「高校の英語の教師」から「助産婦」に変更した私は、まず、どうしたら助産婦になれるか調べました。
1.看護大学あるいは看護短大あるいは高等看護学校を受験する。
2.看護学を規定の年月学び、看護婦国家試験受験資格を得る。
3.国家試験を受ける。
4.国家試験を合格して、看護婦免許を取得したと見込んで(看護婦免許をすでに持っている者はもちろん、看護婦免許がないと助産婦学校の受験資格がない)助産婦学校を受験する。
5.助産婦学校で1年間助産学を学び、助産婦国家試験受験資格を得る。
6.国家試験を受ける。
7.国家試験を合格して、助産婦免許を取得して、晴れて助産婦として勤務できる。
・・・という経過を追わないといけないことがわかりました。はあはあ。
この「看護婦」はいわゆる「正看護婦」のことです。
「准看護婦」は准看護婦から正看護婦になるための看護学校に行かなければなりません。
私は看護大学を受ける気は無かったので(今でこそ看護大学は多いけど、当時はほとんど無く、地方に行かないといけなかったのです)高等看護学校を受験しようと考えました。
高校2年のときです。
それからは英語・生物・化学・数学・国語と、それは一生懸命に勉強しました。ほんとほんと(笑)
医療関係に進む学生は多くはなく、むしろこじんまりとしていて、皆で励ましながら夏休み・冬休みなど課外授業に出たものです。
懐かしいな。
大学や短大の推薦で、もう合格が内定している学生が半分以上もいる中、高校卒業直前に、看護学校の受験はありました。
受験日が重ならない学校は、全て受験しました。
しかし、この年は私は何か悪いことをしたのか
と思うくらい、全て不合格でした。
一つだけ補欠合格をした学校があったけど最後までお声はかかりませんでした・・・。
そしてついには准看護学校の受験にも失敗したのでした・・・。ひゅるる〜。
私は父に、もう1年頑張らせて!とお願いし、アルバイトをしながら予備校に通いました。
大学受験の理学系ほどではないけれど、ある程度理系の知識は必要です。
そして、そこでも同じように頑張っている友人とも出会い、今でもお付き合いしています。
1年浪人後、国立の看護学校に入学することが出来ました。
19年間の私の人生で、一番うれしかったことです。
これで、助産婦になれる一歩を踏み出したんだ!!!
春休みには、荷物をまとめて、看護学校の学生寮に入る準備をしていました。
でもそれには、結構レベルの高い、4年制の大学に行かねばなりません。
高校の1年から2年に進級するとき、そういう
大学に進学するための、クラス分けの試験に私は見事に落ちてしまい、私は教師の夢をあきらめないといけないのかなあと思っていたときでした。
高校から、ある大きな産科の病院に、思春期教育を受けに行くことになりました。
そこではその日生まれた赤ちゃんを見せてもらったり、お産が済んだお母さんとお話したり、病棟内の見学や、スライドを用いてのいわゆる「性教育」の講義もありました。
講義の最後に数名の看護婦が来て、見学した赤ちゃん達の胎盤や臍帯を持ってきました。
私のグループには、背筋をしゃんと伸ばしきりっとした、少し怖そうだけどとてもきれいな看護婦が来てくれました。
胎盤を初めて見た驚きとともに、その怖そうな彼女のとても優しい口調に「看護婦さんか、いいなあ」と、漠然と考えていました。
何気に彼女の胸についている名札を見ると「助産婦・○○(名字)」と、書いてあるではありませんか。
彼女は助産婦だったのです。
助産婦の仕事をあまり知らなかった私は、彼女にいろいろ質問しました。
そして、彼女はやっぱり優しく答えてくれました。
赤ちゃんがこの世に生まれて最初に対面する人間が助産婦だと言うこと、そして赤ちゃんに触れることの出来る最初の人間も助産婦だと言うことに、とても感動しました。
1人の人間の人生のスタートに、助産婦は携わることが出来るのです。
「助産婦さんか・・・」
もうそのときから、助産婦になりたいと思い始めていました。
将来の夢を「高校の英語の教師」から「助産婦」に変更した私は、まず、どうしたら助産婦になれるか調べました。
1.看護大学あるいは看護短大あるいは高等看護学校を受験する。
2.看護学を規定の年月学び、看護婦国家試験受験資格を得る。
3.国家試験を受ける。
4.国家試験を合格して、看護婦免許を取得したと見込んで(看護婦免許をすでに持っている者はもちろん、看護婦免許がないと助産婦学校の受験資格がない)助産婦学校を受験する。
5.助産婦学校で1年間助産学を学び、助産婦国家試験受験資格を得る。
6.国家試験を受ける。
7.国家試験を合格して、助産婦免許を取得して、晴れて助産婦として勤務できる。
・・・という経過を追わないといけないことがわかりました。はあはあ。
この「看護婦」はいわゆる「正看護婦」のことです。
「准看護婦」は准看護婦から正看護婦になるための看護学校に行かなければなりません。
私は看護大学を受ける気は無かったので(今でこそ看護大学は多いけど、当時はほとんど無く、地方に行かないといけなかったのです)高等看護学校を受験しようと考えました。
高校2年のときです。
それからは英語・生物・化学・数学・国語と、それは一生懸命に勉強しました。ほんとほんと(笑)
医療関係に進む学生は多くはなく、むしろこじんまりとしていて、皆で励ましながら夏休み・冬休みなど課外授業に出たものです。
懐かしいな。
大学や短大の推薦で、もう合格が内定している学生が半分以上もいる中、高校卒業直前に、看護学校の受験はありました。
受験日が重ならない学校は、全て受験しました。
しかし、この年は私は何か悪いことをしたのか
と思うくらい、全て不合格でした。
一つだけ補欠合格をした学校があったけど最後までお声はかかりませんでした・・・。
そしてついには准看護学校の受験にも失敗したのでした・・・。ひゅるる〜。
私は父に、もう1年頑張らせて!とお願いし、アルバイトをしながら予備校に通いました。
大学受験の理学系ほどではないけれど、ある程度理系の知識は必要です。
そして、そこでも同じように頑張っている友人とも出会い、今でもお付き合いしています。
1年浪人後、国立の看護学校に入学することが出来ました。
19年間の私の人生で、一番うれしかったことです。
これで、助産婦になれる一歩を踏み出したんだ!!!
春休みには、荷物をまとめて、看護学校の学生寮に入る準備をしていました。
私は、すでに妊娠20週には、お腹の子は男の子だとわかっていた。
性別が前もってわかると、名前をつけるのも、新生児用品を購入するのも、とても楽だった。
特にベビー服なんて、色が大体決まってるので、男の子なら自然にブルー系の洋服になってしまい、レジに向かう頃には、すっかり「生まれてくるのは男の子」と、周りの誰から見てもわかるような、買い物をしていた。
でも、いざ購入したものを見ると、何だかそっけない。
ブルーばかりで(一応黄色も入れたが)何だか華やかでない。
そうだ。
男のだからって、別にブルーばっかり着せなくてもいいじゃない。
色なんて、好き好きなんだから、男の子がブルーだけって言うのも、何だかおかしい。
私はデザインのかわいいベビー服を見つけ、ブルーではなく、隣においてあったピンクを購入した。
下着だって、かわいいウサギのワンポイントのついたものを選んだ。
ベビーバスだって、ピンクにした。
とてもかわいい。
男の子がピンクを身に着けたっていいじゃない。
カンチには、いろんな色の服を着せていた。
特に1歳頃になり、淡いパステルカラーの服を卒業すると、私は赤を積極的に着せた。
赤はとってもカンチに良く似合っていた。
赤が似合う男なんて、そういないかも、なんて思ってたりして。
そして、それは小学生になった今でも、続いている。
トレーナーも、赤がある。
下着だって、赤やオレンジがある。
ハンカチだって、くまや雪だるまや、とてもかわいいデザインのものがある。
学校以外で履くスニーカーだって、オレンジだ。
いわゆる「女の子系」と言われる色が、カンチには良く似合っている。
ほとんど短髪の、どこから見ても少年そのものなのに。
そしてカンチは、そういう色を決して嫌がらなかった。
この色が良いとも言った。
クリスマスに欲しがってた、ゲームボーイアドバンスだって、友達が持ってない色が欲しいと言い、カンチ自身の口から「ピンク」を、サンタさんにお願いしていた。
ゲームボーイのカセットを入れたり、遊戯王のカードを入れたりするポーチも、赤だ。
色で、男女の区別をするのは、おかしい発想だ。
今は「ジェンダー」なんて言葉がよく言われるが、男の子だから・女の子だからと、決め付けるのはおかしい。
みんな個性豊かな、1人の人間なのに。
先日家に遊びに来たクラスの子から「カンチのゲームボーイ、ピンクじゃん。」と言う言葉が聞かれた。
私は、カンチがどんな答えをするのだろうと見ていたら「誰も持ってない色やから、格好良いやろ。」と、答えていた。
カンチが大人になる頃は、そういう意味でのバリアフリーも進んでいるんだろうな。
性別が前もってわかると、名前をつけるのも、新生児用品を購入するのも、とても楽だった。
特にベビー服なんて、色が大体決まってるので、男の子なら自然にブルー系の洋服になってしまい、レジに向かう頃には、すっかり「生まれてくるのは男の子」と、周りの誰から見てもわかるような、買い物をしていた。
でも、いざ購入したものを見ると、何だかそっけない。
ブルーばかりで(一応黄色も入れたが)何だか華やかでない。
そうだ。
男のだからって、別にブルーばっかり着せなくてもいいじゃない。
色なんて、好き好きなんだから、男の子がブルーだけって言うのも、何だかおかしい。
私はデザインのかわいいベビー服を見つけ、ブルーではなく、隣においてあったピンクを購入した。
下着だって、かわいいウサギのワンポイントのついたものを選んだ。
ベビーバスだって、ピンクにした。
とてもかわいい。
男の子がピンクを身に着けたっていいじゃない。
カンチには、いろんな色の服を着せていた。
特に1歳頃になり、淡いパステルカラーの服を卒業すると、私は赤を積極的に着せた。
赤はとってもカンチに良く似合っていた。
赤が似合う男なんて、そういないかも、なんて思ってたりして。
そして、それは小学生になった今でも、続いている。
トレーナーも、赤がある。
下着だって、赤やオレンジがある。
ハンカチだって、くまや雪だるまや、とてもかわいいデザインのものがある。
学校以外で履くスニーカーだって、オレンジだ。
いわゆる「女の子系」と言われる色が、カンチには良く似合っている。
ほとんど短髪の、どこから見ても少年そのものなのに。
そしてカンチは、そういう色を決して嫌がらなかった。
この色が良いとも言った。
クリスマスに欲しがってた、ゲームボーイアドバンスだって、友達が持ってない色が欲しいと言い、カンチ自身の口から「ピンク」を、サンタさんにお願いしていた。
ゲームボーイのカセットを入れたり、遊戯王のカードを入れたりするポーチも、赤だ。
色で、男女の区別をするのは、おかしい発想だ。
今は「ジェンダー」なんて言葉がよく言われるが、男の子だから・女の子だからと、決め付けるのはおかしい。
みんな個性豊かな、1人の人間なのに。
先日家に遊びに来たクラスの子から「カンチのゲームボーイ、ピンクじゃん。」と言う言葉が聞かれた。
私は、カンチがどんな答えをするのだろうと見ていたら「誰も持ってない色やから、格好良いやろ。」と、答えていた。
カンチが大人になる頃は、そういう意味でのバリアフリーも進んでいるんだろうな。
カンチが2年生にあがった頃の話だ。
カンチの通う小学校では、1年ごとにクラス替えがある。
カンチの隣には、1年の時には同じクラスではなかった、体の大きなS君が座ることになった。
ホームルームをしていたある日のこと、カンチの隣から突然大きな音がしたそうだ。
この音はどこかで聞いたことがある。
そうだ。
おならの音だ。
カンチの席の右側は、廊下になっている。
そんな音は聞こえないはずだ。
だとすれば、左の席に座っているS君が、どうもおならの音の主らしい。
カンチはすぐに、S君の顔を見た。
S君はカンチと目も合わさず、平静であったという。
その音は結構大きくカンチに聞こえたのだそうだが、周りのみんなは全然気がついてない。
S君の左側の席の子も、前後の席に座ってる子も。
カンチだけが気がついたそうだ。
私は、子どもなんだから、おちゃらけて「おならしちゃったあ〜。」と言えば、クラス中が笑いの渦に包まれて、和やかなムードになるのでは?と考えていた。
音のないおならならまだしも、結構大きな音であったと言うのに。
子どもがおならをすると、親の私たちは「あ!今何した?」と、笑いながら聞き返す。
そうすると、子どもは笑いながら、そして少し照れくさそうに「おならや。」と言う。
カンチだけでなく、カンチと仲の良い友達もそうだ。
「えへへ。」と、照れ笑いをし、又遊びだす。
はじめその話を聞いたとき、私は大人の立場で、子どもはかわいいななんて、普通に笑いながら「S君にそれ言ったの?(S君も照れ笑いをしているだろうと勝手に思っていたので)」と言ってしまったが、カンチの返事は違った。
「みんな気づいてないのに、そんなん言うたらS君恥ずかしいやんか。」
そうだった。
良く考えると、もしかしたら大人が子どもに対する「子どもなんだから、それくらいいいじゃない」と言う勝手な発想であって、全然子どもの立場に立って考えてないのではないかと言うことに気がついた。
新しいクラス、まだ仲の良い友達もいないクラスで、きっとS君はうんと緊張していたのだろう。
普段はS君だって、家族の前では照れ笑いをするに違いない。
しかし、どうか、この音に気づかれませんように。
誰も笑いませんように。
心細かったのかもしれない。
そんなS君の気持ちを察してか、はたまた自分がそうだったらきっといやで恥ずかしいな、と思ったのか、カンチの返事には考えさせられた。
子どもも1人の人間だ。
大人以上にプライドもある。
そして、S君の立場に立って自然と考えることが出来たカンチに、教えられたような気がした。
カンチの通う小学校では、1年ごとにクラス替えがある。
カンチの隣には、1年の時には同じクラスではなかった、体の大きなS君が座ることになった。
ホームルームをしていたある日のこと、カンチの隣から突然大きな音がしたそうだ。
この音はどこかで聞いたことがある。
そうだ。
おならの音だ。
カンチの席の右側は、廊下になっている。
そんな音は聞こえないはずだ。
だとすれば、左の席に座っているS君が、どうもおならの音の主らしい。
カンチはすぐに、S君の顔を見た。
S君はカンチと目も合わさず、平静であったという。
その音は結構大きくカンチに聞こえたのだそうだが、周りのみんなは全然気がついてない。
S君の左側の席の子も、前後の席に座ってる子も。
カンチだけが気がついたそうだ。
私は、子どもなんだから、おちゃらけて「おならしちゃったあ〜。」と言えば、クラス中が笑いの渦に包まれて、和やかなムードになるのでは?と考えていた。
音のないおならならまだしも、結構大きな音であったと言うのに。
子どもがおならをすると、親の私たちは「あ!今何した?」と、笑いながら聞き返す。
そうすると、子どもは笑いながら、そして少し照れくさそうに「おならや。」と言う。
カンチだけでなく、カンチと仲の良い友達もそうだ。
「えへへ。」と、照れ笑いをし、又遊びだす。
はじめその話を聞いたとき、私は大人の立場で、子どもはかわいいななんて、普通に笑いながら「S君にそれ言ったの?(S君も照れ笑いをしているだろうと勝手に思っていたので)」と言ってしまったが、カンチの返事は違った。
「みんな気づいてないのに、そんなん言うたらS君恥ずかしいやんか。」
そうだった。
良く考えると、もしかしたら大人が子どもに対する「子どもなんだから、それくらいいいじゃない」と言う勝手な発想であって、全然子どもの立場に立って考えてないのではないかと言うことに気がついた。
新しいクラス、まだ仲の良い友達もいないクラスで、きっとS君はうんと緊張していたのだろう。
普段はS君だって、家族の前では照れ笑いをするに違いない。
しかし、どうか、この音に気づかれませんように。
誰も笑いませんように。
心細かったのかもしれない。
そんなS君の気持ちを察してか、はたまた自分がそうだったらきっといやで恥ずかしいな、と思ったのか、カンチの返事には考えさせられた。
子どもも1人の人間だ。
大人以上にプライドもある。
そして、S君の立場に立って自然と考えることが出来たカンチに、教えられたような気がした。
私の家のトイレは、和式である。(2002年当時)
今住んでいる物件が古いと言うこともあるが。
和式トイレの生活も、もう7年たった。
私の新婚当時は、築20年くらいの5階建てマンションだった。
築年数は古いが、間取りも広く、明るく、収納もたくさんあったので、2LDKのこの部屋は割りと気にいっていた。
さすがにキッチンには、ガス瞬間湯沸かし器を取り付けなければならなかったが、トイレは洋式だった。
妊娠中も住んでいたので、お腹の大きいときは、大変助かった。
次に移り住んだのが、築30年くらいの木造アパート。
離婚前提で別居を開始したので、お金もなく、ココに決めたのだ。
ただ、1歳のカンチの子育てをするには、環境に恵まれていたと思う。
同じアパートには、家族連ればかりだったからだ。
しかし、トイレは和式だった。
ああ、やっぱりと思ったが、水洗だけでも、ありがたいものだ、と考え直した。
保育所でのトイレットトレーニングを行うトイレは、和式である。
オムツが取れるのが早いかもなんて良い方に考えて、納得していた。
和式トイレの所為かどうかは分からないが、2歳5ヶ月にカンチはオムツが取れてしまった。
コレが早いのかどうかは分からないが、トイレットトレーニングはスムーズに進んだのは確かだ。
このアパートを5年ほど住んで引越し、今のこの家に移り住んだ。
築35年くらいの、木造の2階建連棟の家だ。
昭和40年ごろに建てられた、当時流行の建売住宅であろう。
まさしく古いので、トイレが気になったが、やはり和式だった。
でも、ショックは無かった。
今までの和式トイレ生活で慣れ親しんでいたからだ。
これも水洗だったから、ありがたいと思うことにした。
これほどの現代で、新築マンション等では、ウォシュレット付きの洋式トイレが多いのだと思うが、子供が小さい頃は和式でよかったと思える利点が数々ある。
その1・保育所のトイレと同じ様式なので、幼児にとってはトイレがしやすいのではないか。
その2・しゃがむ姿勢なので、足腰が自然と鍛えられ、子供の成長にとっては良いのかも。
その3・水が少なくてすむのでは(なんとなく)
そんな感じの和式トイレ生活だが、先日びっくりした光景を見てしまった。
カンチの友人がうちに遊びに来てて、トイレに入ったときだ。
彼はお腹が痛くて、トイレに入ったのだが、途中で紙がなくなり、中から「おばちゃ〜ん、紙がない〜」と悲痛な叫びを上げ、私は彼の羞恥心も考慮し、トイレのドアを少しだけ開けて、トイレットペーパーを、差し出した。
トイレのドアの隙間から見えた、意外な光景。
そう、彼は和式トイレにしゃがむのではなく、反対向きに座り込んでいたのだ。
洋式トイレのように。
足を伸ばして。
そして、もうひとつびっくりしたことは、実は彼が小学5年生だということだ。
彼のうちは、大きなおうちで、トイレも洋式トイレだ。
和式トイレの経験が無いということは、こういうことなの?
でも、学校は和式トイレだぞ。
学校でも、彼はこんな格好で、ウンチをしているのだろうか。
そういえば、その光景を見て思い出したことがある。
一つは、カンチが保育所時代、幼稚園に行っていたある友人が遊びに来たとき、そのときもそんな風に座ってウンチをしていた。
でもあの時は幼児だったし、私はちょっと笑いながら、お尻を拭くのを手伝ってあげいたっけ。
もう一つは、トイレでウンチが出来ない小学生の話。
コレは、成人された方は皆経験があると思うが、学校でウンチをするのはとても恥ずかしい。
多感な頃だし、ウンチをすると冷やかされたりする(特に男子)。
カンチも1年生のときはウンチをしていたが、ウンチをしてると上級生に上から覗かれるらしく、それがいやだと言っていた。
(学校では、ウンチをしたくなっても、恥ずかしがらないこと。冷やかさないこと。体の大切さとともに、話をしているそうだが)
私は、この羞恥心もそうであるが、お腹が痛くてもトイレにいけない子供が増えているのは、洋式トイレのせいもあるのかもと思う。
いきみ方や、力の入り具合も、洋式と和式では違うであろうし。
何よりふんばれないだろう、洋式トイレでは。
現代の子供の体力の低さは、もしかしたら少なからず洋式トイレの普及もあるのでは?なんて、思ったりもした。
でも、こんなこと言いながら、次に引っ越す予定の家は、やはり洋式なのだがね(笑)
今住んでいる物件が古いと言うこともあるが。
和式トイレの生活も、もう7年たった。
私の新婚当時は、築20年くらいの5階建てマンションだった。
築年数は古いが、間取りも広く、明るく、収納もたくさんあったので、2LDKのこの部屋は割りと気にいっていた。
さすがにキッチンには、ガス瞬間湯沸かし器を取り付けなければならなかったが、トイレは洋式だった。
妊娠中も住んでいたので、お腹の大きいときは、大変助かった。
次に移り住んだのが、築30年くらいの木造アパート。
離婚前提で別居を開始したので、お金もなく、ココに決めたのだ。
ただ、1歳のカンチの子育てをするには、環境に恵まれていたと思う。
同じアパートには、家族連ればかりだったからだ。
しかし、トイレは和式だった。
ああ、やっぱりと思ったが、水洗だけでも、ありがたいものだ、と考え直した。
保育所でのトイレットトレーニングを行うトイレは、和式である。
オムツが取れるのが早いかもなんて良い方に考えて、納得していた。
和式トイレの所為かどうかは分からないが、2歳5ヶ月にカンチはオムツが取れてしまった。
コレが早いのかどうかは分からないが、トイレットトレーニングはスムーズに進んだのは確かだ。
このアパートを5年ほど住んで引越し、今のこの家に移り住んだ。
築35年くらいの、木造の2階建連棟の家だ。
昭和40年ごろに建てられた、当時流行の建売住宅であろう。
まさしく古いので、トイレが気になったが、やはり和式だった。
でも、ショックは無かった。
今までの和式トイレ生活で慣れ親しんでいたからだ。
これも水洗だったから、ありがたいと思うことにした。
これほどの現代で、新築マンション等では、ウォシュレット付きの洋式トイレが多いのだと思うが、子供が小さい頃は和式でよかったと思える利点が数々ある。
その1・保育所のトイレと同じ様式なので、幼児にとってはトイレがしやすいのではないか。
その2・しゃがむ姿勢なので、足腰が自然と鍛えられ、子供の成長にとっては良いのかも。
その3・水が少なくてすむのでは(なんとなく)
そんな感じの和式トイレ生活だが、先日びっくりした光景を見てしまった。
カンチの友人がうちに遊びに来てて、トイレに入ったときだ。
彼はお腹が痛くて、トイレに入ったのだが、途中で紙がなくなり、中から「おばちゃ〜ん、紙がない〜」と悲痛な叫びを上げ、私は彼の羞恥心も考慮し、トイレのドアを少しだけ開けて、トイレットペーパーを、差し出した。
トイレのドアの隙間から見えた、意外な光景。
そう、彼は和式トイレにしゃがむのではなく、反対向きに座り込んでいたのだ。
洋式トイレのように。
足を伸ばして。
そして、もうひとつびっくりしたことは、実は彼が小学5年生だということだ。
彼のうちは、大きなおうちで、トイレも洋式トイレだ。
和式トイレの経験が無いということは、こういうことなの?
でも、学校は和式トイレだぞ。
学校でも、彼はこんな格好で、ウンチをしているのだろうか。
そういえば、その光景を見て思い出したことがある。
一つは、カンチが保育所時代、幼稚園に行っていたある友人が遊びに来たとき、そのときもそんな風に座ってウンチをしていた。
でもあの時は幼児だったし、私はちょっと笑いながら、お尻を拭くのを手伝ってあげいたっけ。
もう一つは、トイレでウンチが出来ない小学生の話。
コレは、成人された方は皆経験があると思うが、学校でウンチをするのはとても恥ずかしい。
多感な頃だし、ウンチをすると冷やかされたりする(特に男子)。
カンチも1年生のときはウンチをしていたが、ウンチをしてると上級生に上から覗かれるらしく、それがいやだと言っていた。
(学校では、ウンチをしたくなっても、恥ずかしがらないこと。冷やかさないこと。体の大切さとともに、話をしているそうだが)
私は、この羞恥心もそうであるが、お腹が痛くてもトイレにいけない子供が増えているのは、洋式トイレのせいもあるのかもと思う。
いきみ方や、力の入り具合も、洋式と和式では違うであろうし。
何よりふんばれないだろう、洋式トイレでは。
現代の子供の体力の低さは、もしかしたら少なからず洋式トイレの普及もあるのでは?なんて、思ったりもした。
でも、こんなこと言いながら、次に引っ越す予定の家は、やはり洋式なのだがね(笑)
大人になっても、忘れがたい子供の頃の思い出の一つに、「コマなし自転車」に初めて乗れたことを挙げる人は多いのではないだろうか。
私もその1人である。
私は母に練習をしてもらったのだが、あの初めてコマを外したときの不安定さは忘れられない感覚だ。
周りの大人や少し大きい子供たちを見ていると、さも簡単そうに、すいすいととても涼しい顔で乗っている。
髪の毛が風になびくので、余計「涼しそうな」姿に見える。
だから私も、すぐにあんなふうに乗れるのだと思っていた。
はじめて、コマを外したときは、何でこんなにハンドルが言うことを聞かず、まっすぐにバランスよく乗れないのだろうと思っていた。
単に練習して、その感覚を学習していけば良いだけなのだが、子供の頃と言うのは、それに対してとても腹が立つのだ。
何でこんなに、ふらふらするの。
何でこんなに、ペダルがこげないの。
あんなに涼しい顔で、自転車をこいでる人も、こんな苦しい体験をして、コマなし自転車に乗れるようになったのだろうか。
そんな感じで、私は小1のときに、やっとコマなし自転車デビューを果たした。
そして今では、交通手段が車でない私は(実はペーパードライバー)、3市くらいは平気で自転車で渡っていく。
さて、カンチの場合はどうであったか。
カンチは、保育所の頃、5歳7ヶ月で練習をした。
コレはカンチが自分から「乗りたい」と言い出したのだ。
それまでは、子供用の一番小さなコマ付き自転車をアパートの前で乗りまわしていただけだったのだが、自分より小さい、なんと3歳の子がコマなし自転車に乗っているのを見て、むずむずと自尊心がくすぐられたのだろう、「母ちゃん、コマなしにして。」と、言い出した。
練習は、土日で決行された。
サドルの高さは、少し高いほうが、自転車をこいだときに、ひざがハンドルの下に当たらなくてこぎやすいのだそうだが、安全面で考えれば、足の裏がぺたっと地面に完全に付くほうが子供には乗りやすいのだそうだ。
近所に広い公園などはなく、たまたまアパートの前があまり車も通らないので、まっすぐなアスファルトの道を、行ったり来たりしていた。
よく、後ろの荷台を大人が持って練習するが、実はそのやり方が私はやりにくかったような思い出があるので、何も触らず、カンチの後姿を見守っていた。
地面を両足でけりながら、さっとペダルに足を置く。
そして転倒しそうになったら、さっと、地面に足を付く。
カンチはバランス感覚を、少しずつ学習して行っている。
しかし、「なんで、こんなにふらふらするんよ!」と、泣いて弱音を吐く場面もあり、1日目は不完全な状態で練習は終了した。
次の日カンチは練習を嫌がった。
その次の土曜日、カンチも気持を切り替えたのか、練習を希望し、なんとその日は、たった片道道路を走っただけで、すいすい乗れるようになってしまった。
はじめは、すごくふらふらしており(後ろから見るとその背中がとてもかわいい)、「そのまま行け〜!行け〜!」と私は後ろから叫んでいた。
カンチの表情はわからないが、もちろん真剣で、それにきっと引きつっていたかもしれない。
そして、カンチはついにコマなし自転車に乗れるようになった。
私もカンチもどんなにうれしかったことだろう。
小学校に入ったカンチは、友達と約束し、自転車で待ち合わせの場所へ向かう。
その後姿を、私は「気をつけて。」と送り出す。
カンチもいつかは自分の子供に、コマなし自転車を練習させる日が来るだろう。
そんな時、私と練習したことを思い出してくれるのかな。
私もその1人である。
私は母に練習をしてもらったのだが、あの初めてコマを外したときの不安定さは忘れられない感覚だ。
周りの大人や少し大きい子供たちを見ていると、さも簡単そうに、すいすいととても涼しい顔で乗っている。
髪の毛が風になびくので、余計「涼しそうな」姿に見える。
だから私も、すぐにあんなふうに乗れるのだと思っていた。
はじめて、コマを外したときは、何でこんなにハンドルが言うことを聞かず、まっすぐにバランスよく乗れないのだろうと思っていた。
単に練習して、その感覚を学習していけば良いだけなのだが、子供の頃と言うのは、それに対してとても腹が立つのだ。
何でこんなに、ふらふらするの。
何でこんなに、ペダルがこげないの。
あんなに涼しい顔で、自転車をこいでる人も、こんな苦しい体験をして、コマなし自転車に乗れるようになったのだろうか。
そんな感じで、私は小1のときに、やっとコマなし自転車デビューを果たした。
そして今では、交通手段が車でない私は(実はペーパードライバー)、3市くらいは平気で自転車で渡っていく。
さて、カンチの場合はどうであったか。
カンチは、保育所の頃、5歳7ヶ月で練習をした。
コレはカンチが自分から「乗りたい」と言い出したのだ。
それまでは、子供用の一番小さなコマ付き自転車をアパートの前で乗りまわしていただけだったのだが、自分より小さい、なんと3歳の子がコマなし自転車に乗っているのを見て、むずむずと自尊心がくすぐられたのだろう、「母ちゃん、コマなしにして。」と、言い出した。
練習は、土日で決行された。
サドルの高さは、少し高いほうが、自転車をこいだときに、ひざがハンドルの下に当たらなくてこぎやすいのだそうだが、安全面で考えれば、足の裏がぺたっと地面に完全に付くほうが子供には乗りやすいのだそうだ。
近所に広い公園などはなく、たまたまアパートの前があまり車も通らないので、まっすぐなアスファルトの道を、行ったり来たりしていた。
よく、後ろの荷台を大人が持って練習するが、実はそのやり方が私はやりにくかったような思い出があるので、何も触らず、カンチの後姿を見守っていた。
地面を両足でけりながら、さっとペダルに足を置く。
そして転倒しそうになったら、さっと、地面に足を付く。
カンチはバランス感覚を、少しずつ学習して行っている。
しかし、「なんで、こんなにふらふらするんよ!」と、泣いて弱音を吐く場面もあり、1日目は不完全な状態で練習は終了した。
次の日カンチは練習を嫌がった。
その次の土曜日、カンチも気持を切り替えたのか、練習を希望し、なんとその日は、たった片道道路を走っただけで、すいすい乗れるようになってしまった。
はじめは、すごくふらふらしており(後ろから見るとその背中がとてもかわいい)、「そのまま行け〜!行け〜!」と私は後ろから叫んでいた。
カンチの表情はわからないが、もちろん真剣で、それにきっと引きつっていたかもしれない。
そして、カンチはついにコマなし自転車に乗れるようになった。
私もカンチもどんなにうれしかったことだろう。
小学校に入ったカンチは、友達と約束し、自転車で待ち合わせの場所へ向かう。
その後姿を、私は「気をつけて。」と送り出す。
カンチもいつかは自分の子供に、コマなし自転車を練習させる日が来るだろう。
そんな時、私と練習したことを思い出してくれるのかな。
昨日ちょっとしたお祝い事があり、実家から生の鯛をもらった。
カンチと2人で食べるには、ちょっと大きかったので、実家と半分ずつ分けることにした。
もちろんお祝い事の鯛なので、内臓取りやうろこ取りなど下処理もしていない。
大きな鯛なので、私はちょっと内蔵を取るのをためらったので(苦手。でもいわしやあじはするよ。一応。)、母親にお腹のところで切ってもらい、しっぽのほうをもらうことにした。
今日の晩ごはんに煮付けようと、うろこ取りから始めた。
もちろんうろこ取りなんて、しょっちゅうするはずない私は、スーパーのビニール袋の中に新聞紙を敷き、その中に鯛を入れて、うろこが散乱しないように、包丁でそいでいった。
こんなに硬かったの?と言うくらい、うろこを取るのに手間取った。
新鮮だからか?鯛が大きいからか?それとも包丁の切れ味が悪いのか?うろこはとっても硬く、そいでもそいでも取れないのだ。
力任せにするものだから、せっかくうろこが散乱しないようにビニール袋に入れたのに、ビニール袋の役目はほとんど果たせられず、大きくて硬いうろこは台所の床に見事に飛び散った。
「あ〜あ。」
うなだれながら、私は散乱したうろこを拾い始めた。
指でつまんだうろこを眺めていると、何気に小さい頃のカンチが言った言葉を思い出した。
「母ちゃん、コレ、しぇんしぇいが持ってた。」
保育所の4歳児クラスのときだ。
そういえば、昔もうろこ取りをしたことがある。
何の魚かは忘れたけれど。
そのときも、うろこは飛び散っていた。
私のその様子を見ていた4歳のカンチは、飛び散ったうろこを見ながら、そう言った。
「母ちゃん、コレ、しぇんしぇいが目に入れてる。」
・・・コンタクトレンズ!!
そうそう、その当時の担任の保育士の先生は、コンタクトレンズをしてたっけ。
子ども達の保育をしてる最中に、コンタクトレンズがずれたのだろう。
そして子ども達の前で、それを治したのだろう。
そんなことしたら、子どもには不思議なはずだ。
私が小さい頃、同居していた祖母の入れ歯がはずれ、それを装着した祖母を見て「おばあちゃん!歯たべてる!」と強烈な印象を持ったのと似ているかも知れない。
あんなものを目に入れるなんて、子どもにしたら強烈な印象だ。
そして、コンタクトレンズと言うものをカンチは知らないし(私がしないので)、魚のうろこと思っても仕方ない。
でも、こんなもの目にいれたら、コンタクトレンズがずれたときよりももっと痛くて、目に悪いだろう。
私は思い出し笑いをしていた。
ニヤニヤしている私を見ながら、カンチは首をかしげていた。
カンチと2人で食べるには、ちょっと大きかったので、実家と半分ずつ分けることにした。
もちろんお祝い事の鯛なので、内臓取りやうろこ取りなど下処理もしていない。
大きな鯛なので、私はちょっと内蔵を取るのをためらったので(苦手。でもいわしやあじはするよ。一応。)、母親にお腹のところで切ってもらい、しっぽのほうをもらうことにした。
今日の晩ごはんに煮付けようと、うろこ取りから始めた。
もちろんうろこ取りなんて、しょっちゅうするはずない私は、スーパーのビニール袋の中に新聞紙を敷き、その中に鯛を入れて、うろこが散乱しないように、包丁でそいでいった。
こんなに硬かったの?と言うくらい、うろこを取るのに手間取った。
新鮮だからか?鯛が大きいからか?それとも包丁の切れ味が悪いのか?うろこはとっても硬く、そいでもそいでも取れないのだ。
力任せにするものだから、せっかくうろこが散乱しないようにビニール袋に入れたのに、ビニール袋の役目はほとんど果たせられず、大きくて硬いうろこは台所の床に見事に飛び散った。
「あ〜あ。」
うなだれながら、私は散乱したうろこを拾い始めた。
指でつまんだうろこを眺めていると、何気に小さい頃のカンチが言った言葉を思い出した。
「母ちゃん、コレ、しぇんしぇいが持ってた。」
保育所の4歳児クラスのときだ。
そういえば、昔もうろこ取りをしたことがある。
何の魚かは忘れたけれど。
そのときも、うろこは飛び散っていた。
私のその様子を見ていた4歳のカンチは、飛び散ったうろこを見ながら、そう言った。
「母ちゃん、コレ、しぇんしぇいが目に入れてる。」
・・・コンタクトレンズ!!
そうそう、その当時の担任の保育士の先生は、コンタクトレンズをしてたっけ。
子ども達の保育をしてる最中に、コンタクトレンズがずれたのだろう。
そして子ども達の前で、それを治したのだろう。
そんなことしたら、子どもには不思議なはずだ。
私が小さい頃、同居していた祖母の入れ歯がはずれ、それを装着した祖母を見て「おばあちゃん!歯たべてる!」と強烈な印象を持ったのと似ているかも知れない。
あんなものを目に入れるなんて、子どもにしたら強烈な印象だ。
そして、コンタクトレンズと言うものをカンチは知らないし(私がしないので)、魚のうろこと思っても仕方ない。
でも、こんなもの目にいれたら、コンタクトレンズがずれたときよりももっと痛くて、目に悪いだろう。
私は思い出し笑いをしていた。
ニヤニヤしている私を見ながら、カンチは首をかしげていた。
シングルママなら、意外とみんな同じような不安を抱いていることが多いのではないだろうか。
まず、一番大きな不安は経済的なこと。
私は資格があるため、離婚時にはみんなに「カンチ君1人くらい育てていけるからいいじゃない」と言われたが、実はこういうことを言われるのは非常に傷ついていた。
これだって私が健康で元気でないと、発揮できないものだ。
私に万が一何かあれば、カンチをどうやって育てていくと言うのだ。
そして次に。
他のシングルママはどういうことが不安になるかわからないが、私の場合は「危機管理」である。
いくら貧乏といっても、取られる物が何もないといっても、泥棒が入った後のような部屋の散らかりようだとしても、そこはやはり女と子どもだけの住まいだ。
外部からの侵入者に対しては、危機管理を徹底しておかないといけないと思う。
前夫が出て行った後、何が一番不安で怖かったかと言えば、カンチと2人きりで夜を過ごすと言うことであった。
前夫との関係で傷つき、疑心暗鬼になっている精神状態のときであった当時は、余計に怖かった。
カンチとの生活に慣れてきてからも、私は外出時と寝る前の戸締りには気を使った。
強迫観念かと思われるくらい、戸締りは何回も確認する。
カンチが3歳のときだっただろうか。
無意識の奥底ではまだまだ気も張っている頃だったのだろう、とても怖い夢を見た。
私の部屋に、見知らぬ人物が侵入してくる夢だった。
その男は「清水のおっさん」と名乗っていた。
なぜ「清水」なのかは、夢なので詳細は不明であるが。
特に乱暴されたり、物を取られたりすることは無かったが、何かしら不気味な雰囲気をかもし出していたおっさんだった(ように思った)。
朝起きて、私はカンチに「お母さん、怖い夢を見たよ〜。」と、「清水のおっさん」の話をした。
怖い夢だったので、誰かに話したかったのだ。
もちろん、相手は子どもなので、生々しい表現は出来ない。
変に怖がらせてもいけないし。
そんな風に、言葉を選んで私は話をしていたのだが、カンチの取りかたは違っていた。
そう、カンチはなぜか、大うけしてしまった。
「おっさん」と言うフレーズが、子ども心をくすぐったのだろうか、私は「お母さんが怖い夢を見たって言うのに、ちょっとは慰めてよ!」と、朝からぶりぶり怒っていた。
そしてその朝も、カンチは第一次反抗期丸出しで、私の言うことを聞かなかった。
怖い夢を見たというのに、カンチには笑われ、時間がないというのにカンチは反抗する。
私は思わず口に出てしまった。
「そんな子は、清水のおっさんに連れて行ってもらうよ!」
カンチは、一瞬ぴくっとした。
やはり、ちょっとは怖いと思っていたのだろう。
カンチは、それから言うことをよく聞くようになった(長くは続かなかったが)
私は子どもの頃を思い出した。
私は3人兄弟の一番上なのだが、兄弟と言うものは、なぜあんなにけんかをするものなのだろうか。
私たちも、よくけんかをしていた。
兄弟けんかの内容は、誰かが叩いたのだの、妹が私の大事なシールを破いただの、そんなつまらないことが多い。
そんなある日、兄弟けんかを見かねた祖母が、「そんなにけんかするんやったら、子取りのおっちゃんに連れて行ってもらうよ!」と、大声を張り上げた。
私たちは、ぴたりとけんかをやめた。
それほど「子取りのおっちゃん」は怖かったのだ。
架空の人物であるはずなのに、子どもにとっては怖いのだった。
それからはけんかをするたびに、祖母は「子取りのおっちゃん」を呼びに言ったり、「子取りのおっちゃん」に電話をかけたりしていた。
その芝居の様子が、余計「子取りのおっちゃん」を現実のものと思い込ませる。
なかなか、大人と言うのは、芝居上手だ。
ある育児の本では「鬼田さん」と書かれてあって、やはり兄弟けんかをしたり、子どもが駄々をこねたりすると、母親は「鬼田さん」に電話をし、子どもの人数を言い、家に来てもらうように予約をする。
子どもの人数を言うと言うことは、子どもを連れて行くのに、鬼田さんは大きな袋なんかを人数分用意するのだろうか。
そんな「子取りのおっちゃん」や「鬼田さん」のような効用が、「清水のおっさん」には有ったようで、カンチは見事に言うことを聞いた。
私も、しばらく楽しませてもらった。
カンチも小学生になり、ギャングエイジばりの反抗的な口を叩くが、もう「清水のおっさん」は通用しない。
当たり前か。
カンチの心の中には、もう「清水のおっさん」は存在しない。
しかし私の心の中には、まだ「清水のおっさん」は住んでいる。
そして今夜も、玄関とトイレの窓の鍵を3回確認し、寝ることにしよう。
戸締りだけは、怠らないようにしなければ。
まず、一番大きな不安は経済的なこと。
私は資格があるため、離婚時にはみんなに「カンチ君1人くらい育てていけるからいいじゃない」と言われたが、実はこういうことを言われるのは非常に傷ついていた。
これだって私が健康で元気でないと、発揮できないものだ。
私に万が一何かあれば、カンチをどうやって育てていくと言うのだ。
そして次に。
他のシングルママはどういうことが不安になるかわからないが、私の場合は「危機管理」である。
いくら貧乏といっても、取られる物が何もないといっても、泥棒が入った後のような部屋の散らかりようだとしても、そこはやはり女と子どもだけの住まいだ。
外部からの侵入者に対しては、危機管理を徹底しておかないといけないと思う。
前夫が出て行った後、何が一番不安で怖かったかと言えば、カンチと2人きりで夜を過ごすと言うことであった。
前夫との関係で傷つき、疑心暗鬼になっている精神状態のときであった当時は、余計に怖かった。
カンチとの生活に慣れてきてからも、私は外出時と寝る前の戸締りには気を使った。
強迫観念かと思われるくらい、戸締りは何回も確認する。
カンチが3歳のときだっただろうか。
無意識の奥底ではまだまだ気も張っている頃だったのだろう、とても怖い夢を見た。
私の部屋に、見知らぬ人物が侵入してくる夢だった。
その男は「清水のおっさん」と名乗っていた。
なぜ「清水」なのかは、夢なので詳細は不明であるが。
特に乱暴されたり、物を取られたりすることは無かったが、何かしら不気味な雰囲気をかもし出していたおっさんだった(ように思った)。
朝起きて、私はカンチに「お母さん、怖い夢を見たよ〜。」と、「清水のおっさん」の話をした。
怖い夢だったので、誰かに話したかったのだ。
もちろん、相手は子どもなので、生々しい表現は出来ない。
変に怖がらせてもいけないし。
そんな風に、言葉を選んで私は話をしていたのだが、カンチの取りかたは違っていた。
そう、カンチはなぜか、大うけしてしまった。
「おっさん」と言うフレーズが、子ども心をくすぐったのだろうか、私は「お母さんが怖い夢を見たって言うのに、ちょっとは慰めてよ!」と、朝からぶりぶり怒っていた。
そしてその朝も、カンチは第一次反抗期丸出しで、私の言うことを聞かなかった。
怖い夢を見たというのに、カンチには笑われ、時間がないというのにカンチは反抗する。
私は思わず口に出てしまった。
「そんな子は、清水のおっさんに連れて行ってもらうよ!」
カンチは、一瞬ぴくっとした。
やはり、ちょっとは怖いと思っていたのだろう。
カンチは、それから言うことをよく聞くようになった(長くは続かなかったが)
私は子どもの頃を思い出した。
私は3人兄弟の一番上なのだが、兄弟と言うものは、なぜあんなにけんかをするものなのだろうか。
私たちも、よくけんかをしていた。
兄弟けんかの内容は、誰かが叩いたのだの、妹が私の大事なシールを破いただの、そんなつまらないことが多い。
そんなある日、兄弟けんかを見かねた祖母が、「そんなにけんかするんやったら、子取りのおっちゃんに連れて行ってもらうよ!」と、大声を張り上げた。
私たちは、ぴたりとけんかをやめた。
それほど「子取りのおっちゃん」は怖かったのだ。
架空の人物であるはずなのに、子どもにとっては怖いのだった。
それからはけんかをするたびに、祖母は「子取りのおっちゃん」を呼びに言ったり、「子取りのおっちゃん」に電話をかけたりしていた。
その芝居の様子が、余計「子取りのおっちゃん」を現実のものと思い込ませる。
なかなか、大人と言うのは、芝居上手だ。
ある育児の本では「鬼田さん」と書かれてあって、やはり兄弟けんかをしたり、子どもが駄々をこねたりすると、母親は「鬼田さん」に電話をし、子どもの人数を言い、家に来てもらうように予約をする。
子どもの人数を言うと言うことは、子どもを連れて行くのに、鬼田さんは大きな袋なんかを人数分用意するのだろうか。
そんな「子取りのおっちゃん」や「鬼田さん」のような効用が、「清水のおっさん」には有ったようで、カンチは見事に言うことを聞いた。
私も、しばらく楽しませてもらった。
カンチも小学生になり、ギャングエイジばりの反抗的な口を叩くが、もう「清水のおっさん」は通用しない。
当たり前か。
カンチの心の中には、もう「清水のおっさん」は存在しない。
しかし私の心の中には、まだ「清水のおっさん」は住んでいる。
そして今夜も、玄関とトイレの窓の鍵を3回確認し、寝ることにしよう。
戸締りだけは、怠らないようにしなければ。
2〜3日前、カンチが1枚のプリントを持って帰ってきた。
「母ちゃん、土曜日までに先生に出すねん。書いといてな。」
見ると、授業か何かで使うのだろう、子どもが生まれたときの様子を記載するようになっているプリントだった。
早速母子手帳を出してきて、カンチが生まれたときの体重と身長を見てみた。
体重=2880グラム。
身長=47,5センチ。
私の体格から言えば、決して大きいほうでなく、むしろ小さいほうで、そして安産だった。
カンチはとっても元気な男の子だった。
前夫と結婚して1ヶ月経つ頃に、私はカンチを妊娠した。
私は子どもが欲しくて欲しくて仕方が無かったので、この自然な現象にすごく喜んだ。
妊娠するってこんなに幸せなのかと思うくらい、カンチの小さい命を、まだ全然大きくなっていないお腹に感じていた。
「こんな自分が母親になれるんだろうか」「子どもを育てるのは大変」「うまく育児できるんだろうか」など、いろいろ聞くと不安を抱える妊婦さんはすごく多いのだが、そういうことを微塵も感じることなく、心からうれしかった。
もしかしたら、私が助産婦と言うこともあるのかもしれないけれど、でもそれだけじゃないとも思う。
カンチと会える日を、待ち遠しく思った。
妊娠中はつわりがひどく、独身時代から仕事を続けていた私だったが、つわりで仕事を休むことは無かった。
しかし一度、あまりにもしんどくて休みをもらったことがあったのだが、一日中家に1人でいると、余計つわりが重く感じ、トイレに何度も駆け込んだ。
頭の中は、つわりのことばかり。
テレビを見ても、雑誌を見ても、このつわりから逃れることは出来ない。
そう、あの乗り物酔いのあの感じ。
二日酔いのむかむか感。生唾が出る。
頭が痛い。眠い。
あれが一日中、続くのだ。
妊娠初期は少し大きくなった子宮が膀胱を圧迫するので、夜中であろうと、トイレに行く回数が多くなる。
そしてトイレに行きたくて夜中に目が覚めても、トイレだけでは済まないのだ。
必ず吐いてから布団に入る。
そんな日が私の場合、妊娠23週くらいまで続いた。
胎動を感じてからは、うれしさもあり少しはましになったけど。
そんなつわり状態なので、家でじっとしているより仕事で仲間や先輩や入院中の産婦さんと話をするほうが、ずいぶん気がまぎれた。
トイレに行く回数も嘔吐する回数も同じでも、気分的にずいぶん違う。
私は仕事を、何が何でも頑張った。
ただ、通勤電車にだけは参った。
こみ上げてくる嘔気を、次の駅まで我慢しなければならないのだ。
1時間半かかる通勤時間を、3〜4駅で1回降りてトイレに駆け込み、吐いて少しましになったら又電車に乗る。
そんな毎日が続いたが、私は妊娠を辛いと思ったことは無かった。
つわりは確かに、もちろん辛かったが、つわりがあることで、お腹のカンチが元気でいることが確かめられたので、反対に安心できたほどだった。
だから、頑張れたのかもしれない。
妊娠17週になって、私は初産婦には珍しいくらいの早い時期に、胎動を感じるようになった。
初めは、あのまぶたがピクピク痙攣するような感じ(わかる?)だったのが、月日が経つとしだいにはっきり感じられるようになる。
途中、カンチは逆子になってしまい、そのときはカンチが思いっきり私の膀胱を蹴るので、トイレに行きたいような行きたくないような、そんな妙な感じがあり、でもあれはやっぱり気持ち悪かった(笑)
カンチは私のお腹の中でとてもよく動き、時にしゃっくりをしたりもした。
本当に元気だった。
妊娠30週頃に切迫早産と言われた以外(1ヶ月仕事は休んだが、つわりはもう無かったので楽だった)妊娠経過は順調で、私は予定日の次の日に、陣痛で夜中に目が覚めることとなった。
もうすでに、お腹の赤ちゃんは男の子とわかっている。
いよいよカンチに会えるんだ。
陣痛でお腹が痛いのに、心臓はとてもどきどきしていた。
カンチを元気に産んであげなければ、と思っていた。
私は助産院でカンチを産んだ。
その助産院は、私が助産婦学校で実習・研究でお世話になった所だ。
そこの院長である助産婦は(助産院は医師ではなく、助産婦が主となって正常分娩を扱うところ)大先輩だ。
私のお産を、すごく楽しみにして下さっていた。
ちょうどある助産婦学校の実習にあたり、私のお産は前夫の立会いと、助産婦学生数名・院長の助産婦・介助の助産婦といった、多分あまり産婦さんが経験されないようなお産の雰囲気で、大勢の方が、私のお産を見守ってくれた。
そんな中で、カンチが産まれた。
最後までカンチの心音は下がらず、私はカンチを元気に産むことが出来た。
初めて見る顔。カンチの温もり。
やわらかい感触。大きな泣き声。
10ヶ月も、私のお腹にいたカンチ。
ああ、あなただったの。私のお腹にいたのは。
あなただったのか・・・。
初対面なのに、初対面ではない関係。
母親と子どもって、不思議な感覚で、初めてのご対面をするんだな。
私はとても幸せだった。
「ぼく・わたしがうまれたとき」
そんなタイトルのプリントを眺めながら、カンチと初めて会ったときの、このときのことを思い出した。
何も考えることなく、つらつらと私はそのプリントに書いた。
お腹にいたときのお母さんの気持ち、生まれたときのこと、名前の由来など、私はボールペンを走らせた。
「はい。書けたよ。」
「うん。」と、カンチはそのプリントを受け取って、ファイルに入れようとした。
「ああ、読んだげようか。」
「いいよ。学校で読むから。」
「いいよ。今読みたいねん、お母さん。」
私は書いてあることを、カンチに読んで聞かせた。
カンチは少し照れくさいのか苦笑いしていて、そしてそのプリントを受け取り、再びファイルに入れなおし、ランドセルをしょって学校へ行った。
カンチが生まれたときのことを、きちんと話すことはとても大事だ。
私1人で子どもなんて作れるはずもなく、カンチには父親がいる。
こんなとき、少しせつない。
でもそのときはカンチの父親だって、カンチの誕生を喜んだはずだ。
そう思いたい。
少なくとも私はそう思って、これからもカンチと生きていかなくちゃいけない。
「母ちゃん、土曜日までに先生に出すねん。書いといてな。」
見ると、授業か何かで使うのだろう、子どもが生まれたときの様子を記載するようになっているプリントだった。
早速母子手帳を出してきて、カンチが生まれたときの体重と身長を見てみた。
体重=2880グラム。
身長=47,5センチ。
私の体格から言えば、決して大きいほうでなく、むしろ小さいほうで、そして安産だった。
カンチはとっても元気な男の子だった。
前夫と結婚して1ヶ月経つ頃に、私はカンチを妊娠した。
私は子どもが欲しくて欲しくて仕方が無かったので、この自然な現象にすごく喜んだ。
妊娠するってこんなに幸せなのかと思うくらい、カンチの小さい命を、まだ全然大きくなっていないお腹に感じていた。
「こんな自分が母親になれるんだろうか」「子どもを育てるのは大変」「うまく育児できるんだろうか」など、いろいろ聞くと不安を抱える妊婦さんはすごく多いのだが、そういうことを微塵も感じることなく、心からうれしかった。
もしかしたら、私が助産婦と言うこともあるのかもしれないけれど、でもそれだけじゃないとも思う。
カンチと会える日を、待ち遠しく思った。
妊娠中はつわりがひどく、独身時代から仕事を続けていた私だったが、つわりで仕事を休むことは無かった。
しかし一度、あまりにもしんどくて休みをもらったことがあったのだが、一日中家に1人でいると、余計つわりが重く感じ、トイレに何度も駆け込んだ。
頭の中は、つわりのことばかり。
テレビを見ても、雑誌を見ても、このつわりから逃れることは出来ない。
そう、あの乗り物酔いのあの感じ。
二日酔いのむかむか感。生唾が出る。
頭が痛い。眠い。
あれが一日中、続くのだ。
妊娠初期は少し大きくなった子宮が膀胱を圧迫するので、夜中であろうと、トイレに行く回数が多くなる。
そしてトイレに行きたくて夜中に目が覚めても、トイレだけでは済まないのだ。
必ず吐いてから布団に入る。
そんな日が私の場合、妊娠23週くらいまで続いた。
胎動を感じてからは、うれしさもあり少しはましになったけど。
そんなつわり状態なので、家でじっとしているより仕事で仲間や先輩や入院中の産婦さんと話をするほうが、ずいぶん気がまぎれた。
トイレに行く回数も嘔吐する回数も同じでも、気分的にずいぶん違う。
私は仕事を、何が何でも頑張った。
ただ、通勤電車にだけは参った。
こみ上げてくる嘔気を、次の駅まで我慢しなければならないのだ。
1時間半かかる通勤時間を、3〜4駅で1回降りてトイレに駆け込み、吐いて少しましになったら又電車に乗る。
そんな毎日が続いたが、私は妊娠を辛いと思ったことは無かった。
つわりは確かに、もちろん辛かったが、つわりがあることで、お腹のカンチが元気でいることが確かめられたので、反対に安心できたほどだった。
だから、頑張れたのかもしれない。
妊娠17週になって、私は初産婦には珍しいくらいの早い時期に、胎動を感じるようになった。
初めは、あのまぶたがピクピク痙攣するような感じ(わかる?)だったのが、月日が経つとしだいにはっきり感じられるようになる。
途中、カンチは逆子になってしまい、そのときはカンチが思いっきり私の膀胱を蹴るので、トイレに行きたいような行きたくないような、そんな妙な感じがあり、でもあれはやっぱり気持ち悪かった(笑)
カンチは私のお腹の中でとてもよく動き、時にしゃっくりをしたりもした。
本当に元気だった。
妊娠30週頃に切迫早産と言われた以外(1ヶ月仕事は休んだが、つわりはもう無かったので楽だった)妊娠経過は順調で、私は予定日の次の日に、陣痛で夜中に目が覚めることとなった。
もうすでに、お腹の赤ちゃんは男の子とわかっている。
いよいよカンチに会えるんだ。
陣痛でお腹が痛いのに、心臓はとてもどきどきしていた。
カンチを元気に産んであげなければ、と思っていた。
私は助産院でカンチを産んだ。
その助産院は、私が助産婦学校で実習・研究でお世話になった所だ。
そこの院長である助産婦は(助産院は医師ではなく、助産婦が主となって正常分娩を扱うところ)大先輩だ。
私のお産を、すごく楽しみにして下さっていた。
ちょうどある助産婦学校の実習にあたり、私のお産は前夫の立会いと、助産婦学生数名・院長の助産婦・介助の助産婦といった、多分あまり産婦さんが経験されないようなお産の雰囲気で、大勢の方が、私のお産を見守ってくれた。
そんな中で、カンチが産まれた。
最後までカンチの心音は下がらず、私はカンチを元気に産むことが出来た。
初めて見る顔。カンチの温もり。
やわらかい感触。大きな泣き声。
10ヶ月も、私のお腹にいたカンチ。
ああ、あなただったの。私のお腹にいたのは。
あなただったのか・・・。
初対面なのに、初対面ではない関係。
母親と子どもって、不思議な感覚で、初めてのご対面をするんだな。
私はとても幸せだった。
「ぼく・わたしがうまれたとき」
そんなタイトルのプリントを眺めながら、カンチと初めて会ったときの、このときのことを思い出した。
何も考えることなく、つらつらと私はそのプリントに書いた。
お腹にいたときのお母さんの気持ち、生まれたときのこと、名前の由来など、私はボールペンを走らせた。
「はい。書けたよ。」
「うん。」と、カンチはそのプリントを受け取って、ファイルに入れようとした。
「ああ、読んだげようか。」
「いいよ。学校で読むから。」
「いいよ。今読みたいねん、お母さん。」
私は書いてあることを、カンチに読んで聞かせた。
カンチは少し照れくさいのか苦笑いしていて、そしてそのプリントを受け取り、再びファイルに入れなおし、ランドセルをしょって学校へ行った。
カンチが生まれたときのことを、きちんと話すことはとても大事だ。
私1人で子どもなんて作れるはずもなく、カンチには父親がいる。
こんなとき、少しせつない。
でもそのときはカンチの父親だって、カンチの誕生を喜んだはずだ。
そう思いたい。
少なくとも私はそう思って、これからもカンチと生きていかなくちゃいけない。
3年間続いたサイトを、閉鎖した。
もう、何ヶ月も放っておいたんだけど、やっとけじめをつけることができた。
理由は、仕事が忙しいと言うより、プライベートが丸裸になってしまって、ある人にいつも見られていたからだ。
すっきりした。
以前のサイトで仲良くなった友達にも挨拶に行ってきたけど、その直後にブログを立ち上げるなんて^^;
少し落ち着いたら、また報告しに行こうっと!
<今日の晩ごはん>
・鶏胸肉のチーズサンドのパン粉焼き
(鶏胸肉、パン粉、パセリ、オニオン風味のチーズ)
・生野菜(レタス、きゅうり、トマト)
・残り野菜の卵とじ(人参、玉ねぎ、チンゲンサイ、かまぼこ、卵)
・かぶらの塩もみ
もう、何ヶ月も放っておいたんだけど、やっとけじめをつけることができた。
理由は、仕事が忙しいと言うより、プライベートが丸裸になってしまって、ある人にいつも見られていたからだ。
すっきりした。
以前のサイトで仲良くなった友達にも挨拶に行ってきたけど、その直後にブログを立ち上げるなんて^^;
少し落ち着いたら、また報告しに行こうっと!
<今日の晩ごはん>
・鶏胸肉のチーズサンドのパン粉焼き
(鶏胸肉、パン粉、パセリ、オニオン風味のチーズ)
・生野菜(レタス、きゅうり、トマト)
・残り野菜の卵とじ(人参、玉ねぎ、チンゲンサイ、かまぼこ、卵)
・かぶらの塩もみ
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